ミッドサマー ペレ 絵。 映画『ミッドサマー』ネタバレ感想と考察。結末でアリアスター監督が描く“残忍で破滅的なおとぎ話”とは

ミッドソマー(Midsommar)完全ネタバレ

ミッドサマー ペレ 絵

ミッドサマーを見ました。 本当はミッドソマーです。 簡単に説明すると 大学生がのカルト村で血祭りにされる話です。 個人的にはグロテスクなのが苦手ならば、これを読んで見に行くか決めていいと思います。 ストーリーはある意味よくあるホラー映画ですが、 この映画は 見るカルチャーショックです。 何人かの方がなどで言っていますが、私も二日ぐらい恐怖に囚われたままでした。 精神的に不安定な方は本当に見ないほうがいいです。 しかも2時間45分もあります。 鑑賞中、家に帰りたくなる映画はこれがはじめてでした。 個人の感想ですが ミッドソマーのネタバレを書いた理由は単に誰もやっていなかったからだけではなくて、一種の注意喚起なんです。 海外のファンが「自殺志願者の後押しになりそうな映画。 多分日本で公開されても、そういう事は言わないでしょうから。 特に最近身内に不幸があった方には精神的にきます。 個人的には映画の内容的にも あえて間違ったように(実際の発音とは違うように読んでしまう)しているのかな?とも思います。 もっと適当に詳しく説明 (普通にえげつない描写があるので注意) カの大学生、主人公のダニ(Dani)はを患う妹からの自殺未遂にめちゃ困った生活を送っていて、それにより彼女自身も不安障害的なものを患っています。 ダニの彼氏のクリスチャン(Christian)はメンヘラ彼女うぜーと言って友達3人に相談します。 ちなみにこいつら全員人類学の博士課程にいます。 男友達が「別れろよw」的なことを言っているときに、ダニからクリスチャンに電話が来ます。 妹がとうとう両親を殺したうえで自殺してしまったのでした。 電話の向こうでめちゃくちゃ大泣きしているダニと別れるわけにもいかないクリスチャンは関係を続けることにします。 クリスチャンの友達にはマーク、ジョシュ、ペレという3人がいるのですがペレがの村出身で、90年に一度のお祭りがあるから来なよ~と誘ってきます。 そうです、これがタイトルにもなっているMidsommar、祭です。 ジョシュは特に論文がこの村&祭テーマなので研究も兼ねています。 クリスチャンはダニに言わないでいたのですが、色々あってバレます。 ダニは「なんで私に言わないの?!」とキレます。 仕方ないのでクリスチャンは勝手にダニを誘い、合計5人で行くことになります。 長いのでとりあえず顔を覚えてください。 左からダニ、クリスチャン、ジョシュ、マーク 引用:Midsommar公式インスタグラム ペレの村の手前に着きました。 を勧められて5人はハイになります。 ペレの弟が英国人のルを同じように連れてきていました。 コニーとサイモンです。 全員揃ったところで山のなかをひたすら歩き、村に到着します。 まあ初日はペレの妹、マヤ(Maja や他の村の人に会ったり。 祭りの始まりじゃーという掛け声を聞いたりします。 特にここまではあんま怖いシーンはないです。 マヤも重要なキャラです。 その日はダニの誕生日だったのですが、ペレしか覚えておらず彼はダニの似顔絵をプレゼントします。 クリスチャンはペレに言われて思い出し、そのあと一切れのケーキをプレゼントします。 二日目になりました。 ここの村の人は全員でご飯を食べるというとてもマナーがいい生活をしています。 基本その食事の席で一番偉い人がご飯を食べ始めたらみんながドミノのように次々と食事を開始するのですが、 その日はおじいさんとおばあさんが最初に出てきて、いただきますの音頭をとります。 そして食べ終わったらどこかに連れていかれます。 マークを除いた5人と村人は村からちょっと移動したところに行きます。 マークは昼寝をすると言い、宿舎に戻りました。 さっきのおばあさんとおじいさんが崖の上で儀式をはじめます。 付き人が二人の手のひらをナイフで切ります。 そしてその手のひらを石碑的なものになすりつけ、血を付けます。 うわあ~とか思っている間におばあさんが崖の上で両腕を上げて、飛び降ります。 そして顔が豆腐のようにぐしゃっとなり、ダニたち観光客はパニックになります。 ただクリスチャンとジョシュは人類学専攻なので文化に許容的なのか、割と冷静です。 こえーよ。 次はおじいさんの番です。 コニーとサイモンは人類学とか勉強しているわけでもない、普通の大学生なので必死で止めようとしますが、お構いなしにおじいさんも落ちます。 ただ足から墜落したせいで、即死に至らず、足がバキバキになったまま生きています。 苦しんでいるおじいさんを見て村人たちが同じように苦しみ始めます。 するとバカでかいハンマーを持った村人が来て、おじいさんの顔をつぶします。 割と何回か潰します。 明らかに一回で十分だと思いますが…… 村人たちはコニーたちに老衰で苦しんで死ぬよりも自ら死を選ぶことで名誉を守るのだ、この村の慣習なんだと説明をします。 それを見てダニは帰りたがるのですが、ジョシュの論文のためにここに残ることになります。 ペレはダニに家族の死がストレスになっているんだね、僕の親も焼死したんだと慰め、本当にクリスチャンがダニのためになっているのかと聞きます。 その夜ダニはクリスチャン達に村に置いて行かれる夢をみます。 次の日、コニーとサイモンは帰ることになりました。 しかしコニーがサイモンが居ない!と慌てているのをダニが見つけます。 村人はサイモンは先に車に乗って駅に向かったと言いますが、コニーはサイモンがそんなことするはずがない!と怒ります。 そしてコニーも村を出ます。 昨日見たことによりクリスチャンはこの村の事を論文のテーマにすることに決めます。 ジョシュはふざけんじゃねえとキレますが、ペレも間に入ってなあなあな感じでとりあえずクリスチャンのテーマがこの村に決まります。 ペレは村の長老たちに二人がこの村の事を書いていいか聞くと伝えます。 その後、ジョシュは教会的な建物の中で、で書かれた本を読ませてもらいます。 司祭的な感じの人はルーベンという名前の奇形児がとしてこの本をつくるのだと説明します。 ジョシュはルーベンが近親相姦で出来た子供だと知ります。 そして写真を撮っていいか聞きますが、勿論「ダメです」と断られます。 一方、外では一昨日のおじいちゃんおばあちゃんの死体は焼かれて、村人たちはその灰を村のちょっと奥まった森の手前にある横たわっている古木にかけています。 しかしそこにマークはまさかの立ちションをするのでした。 それを見つけた一人のおじさん村人はめちゃくちゃ怒ります。 当たり前です。 「ご先祖様が……」と泣け叫びます。 ペレはこれはご先祖様のお墓なんだよと説明しますが、マークは「は??知らなかったし!」とナメた事を言います。 ただマークは怒り狂ったおじさんを見て「俺、殺されないよな?」と笑います。 その後、ペレはクリスチャンとジョシュに村の人が二人がこの村を題材にすることを場所と村の名前を書かないことを条件に許可してくれたと伝えます。 クリスチャンは早速、老いた村人にこの村はぶっちゃけ近親相姦で成り立っているのか聞きます。 回答は大体の場合外部の血を受け入れているというものでした。 昼食の時間になりました。 クリスチャンはパイの中に陰毛を見つけます。 よく見ると彼のレモネード的なものだけ黄色ではなくオレンジ色なのですが、誰もそれに気づかず(気づけよ)クリスチャンは飲み干します。 それをマヤがガン見しています。 明らかに彼女のブツです。 要はこの村の愛の媚薬的な、お誘い的なものなんですね。 そうしたら今度は他の女の子がマークの元へ来て、ちょっとこっちに来てくれない?と聞きます。 この子は割と前半の時からマークとしょっちゅう目が合っていたので、マークはついていきます。 普通に考えたらヤバいだろと思うのですが、まあその通りそれ以降マークは行方不明になります。 その夜、ジョシュはさっきの教会に忍び込み、本の写真を撮り始めます。 ふと気が付くとドアのところにマークが立っているのに気づきます。 ジョシュは「おい!マーク、何してるんだよ。 俺たちはここに本当はいちゃいけないんだぞ!」と言います。 しかしマークは何も言いません。 なんとその立っている人はマークを殺して顔の皮を剥いで、それを被った村人だったのでした。 ジョシュはそのままハンマーでぶったたかれ気絶してどこかへ引きずられていきました。 次の朝、朝食の終わりに村人が「昨夜、ルーベンの本が盗まれました。 」と皆に告げます。 村人たちは当たり前ですが、ダニ達を疑っています。 そのあとダニは村の女の子たちに誘われダンスコンテストに出場します。 ールの周りでぐるぐると踊り、最後まで立っていた女の子がその年のメイクイーン May になるのです。 ダニと村の女の子達は踊っている間に語が話せるようになります。 コンテストの前に飲んだドラッグ入りのお茶の影響なのですが、ダニは「心から通じ合った」という感覚を得ます。 その時、最後の女の子が倒れ、ダニはその年のメイクイーンになったのでした。 彼女は村人から祝福され、写真を撮った後に人力の馬車に乗って、五穀豊穣の祈るために畑に連れていかれます。 一方そのころクリスチャンは村人からマヤと(村の法則に乗っ取ると)相性が良いため彼女の処女をもらってほしいと頼まれます。 村人たちはクリスチャンにドラッグを飲ませ、建物へ連れていきます。 その中にはマヤが裸で大量の花の上に寝そべり、その周りを何人もの裸の女性が年齢順で並んでいます。 クリスチャンとマヤがセックスをはじめると、マヤの喘ぎ声を女たちがマネをします。 ダニは役目を終えて帰ってきたのですが、その建物から聞こえる声を聞き、直感的に近づいていきます。 女の子たちはダニを止めますが、ダニはそのまま扉に向かい、隙間からクリスチャンがマヤとセックスをしているのを見て、パニックに陥ります。 ダニはそのまま宿舎で泣き崩れ、それをついてきた村の女の子たちがマネをし、一緒に涙を流し始めたのでした。 行為が終わったクリスチャンはハッと自分のしている事の異常さに気づき、裸のまま村を逃げ回ります。 見つけた鶏小屋の中ではサイモンが背中の皮膚を開かれ肺が引きずりだされたまま(しかもまだ動いている)、そして目には黄色い花を刺されて、吊るされているのを発見します。 すると後ろから村人たちが忍び寄り、クリスチャンに薬の粉を投げかけ気絶させます。 クリスチャンは「貴方は動けないし、喋れない、でも大丈夫よ」との声とともに目を覚まします。 彼は車椅子の上に座ったまま、ダニが祭壇で花に囲まれているのを見ます。 老いた村人がくじで一人の村人を選び、ダニにクリスチャンかその男、どちらを生贄にするか?と聞きます。 このお祭りには9人の生贄が必要なので、老人は足りない2人の分のボランティアを村人から募り、ペレの弟と若い男が志願します。 そしてペレを「新しい」として称えます。 クリスチャンは解体された熊の毛皮を着せられ、黄色い三角形型の建物の中で座らせられます。 ペレたちはサイモン、コニー、ジョシュ、マークたちの死体をどんどん黄色い建物の中に配置していきます。 最後にボランティアの2人に祭司が「痛みを感じないように」「恐れを感じないように」と舌に薬を塗り、建物に火をつけます。 クリスチャンは身動きもとれず、目を開けたまま火に包まれます。 ボランティア達は恐怖と痛みで泣け叫び、それを外で見ている村人たちが苦しむ演技を始めます。 ダニも最初は村人とともに泣きますが、最後に一人、燃え盛る建物を見つめ、微笑みます。 終わり どうでしょうか。 本当に全部書いたらとんでもない長文になってしまいました。 怖そうですよね?怖いです。 ただこの監督、次はコメディが撮りたい(?!)とか言っている通り、微妙に笑えるシーンもあります。 そもそも既に販売されているグッズが檻に閉じ込められた熊(最後にクリスチャンが着せられるやつ)の置物なんですが、公式CMがこれです。 ちょっと頭おかしい.

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映画『ミッドサマー』あらすじネタバレと感想。「ヘレディタリー」を軽々と凌駕する狂気に満ちた夏祭り!

ミッドサマー ペレ 絵

『ミッドサマー』はアリ・アスター監督の恋人に振られたという経験に着想を得た物語です。 それと同時に製作側から「スウェーデンを舞台にしたホラー映画を作って欲しい」と頼まれたことから本作の製作に至りました。 こうした経緯から、 『ミッドサマー』はスウェーデンおよび北欧の神話や風習を徹底的に調べて作り込まれています。 正直見ている最中に北欧神話との紐付けをする余裕はありません(笑) ぜひ映画を観に行かれて、その後でネタバレをお読み下さい。 今作でアリ・アスター監督作品に目覚めた人は『』も見てみると、監督の思想がより理解できるでしょう。 この記事は以降ネタバレを含みます。 ディレクターズカット版の考察も追記しました。 スウェーデンではマイストングなどと呼ばれています。 なのでメイクイーンも「白樺の葉の女王」といったところでしょうか。 以下は公式のネタバレです。 他の国では5月の女王という意味で「メイ・クイーン」になるようですね。 いろんな国の風習混じっているのが分かりますね。 略 5月1日の祝日「メーデー」(May Day)の日に、イングランドやカナダのブリティッシュ・コロンビアでは、この祝日のお祭りで「メイ・クイーン」に選ばれた若い女性が、処女性のシンボルである白いガウンを着て、花飾りのついた冠をかぶってお祭りのパレードの先頭を歩く。 また、若さと春を祝う「メイポール・ダンス」の前にスピーチを行うという。 (略) 引用元: メイポール・ダンスについて ダニーがメイポールの周りでホルガの女性たちと ダンスを踊ります。 映画ではメイポール・ダンス(そのままですね笑)と言われています。 実際はスモークロドーナというダンス。 老若男女がカエルの鳴きマネをしながら、飛び跳ねて回る可愛らしいダンスです。 食事について スウェーデンのミッドサマーの食事はほとんどメニューが決まっています。 主食のじゃがいも、ニシンの塩漬けなど… そして最後のデザートは決まっていちごです。 劇中でもアッテストゥパンの前の食事でじゃがいもが別皿に盛られています。 ニシンはメイクイーンが幸福を呼ぶらかと尾っぽから食べる決まり。 食事もかなり現実に近い素材が使われていますね。 流石に陰毛入りパンケーキなんかはありませんが、実は 恋愛のおまじないがスウェーデンのミッドサマーにはあるのです!!! 恋愛のおまじないについて 恋愛のおまじないは映画にも出てきましたね。 劇中でもサイモンとコニーが質問をして恋のおまじないのタペストリーの解説を受けています。 その時に枕の下に薬草をしいて意中の人と結ばれる夢をみる絵があります。 マヤもクリスチャンの夢を見たのでしょうか。 『ミッドサマー』のマヤの寝床の枕元に草花が置かれていましたね。 現実のおまじないは可愛らしいですが、映画ではその先が恐ろしいですね。 ミッドサマー 熊の伏線を考える ミッドサマーで一番注目して欲しいのは熊!!! 家族が死んで落ち込んでダニーはベッドに横になっていた場面で、壁には熊の絵がかかっています。 この絵は ヨン・パウエル Johon Bauer の「哀れなクマさん Poor Little Bear 」という作品です。 冠を被った少女がクマに口づけをしています。 この絵はまさにホルガ村での結末を暗示しているかのようですね。 壁画にも焼かれる熊が描かれていますし、実際に檻に入った熊も用意されています。 そして、最後にはクリスチャンを熊の中に縫い付けて焼いてしまうという…。 熊はフィンランドの国獣でもあります。 また、映画の中でも話に出てきたヴァイキングは熊を崇拝していましたし、戦士たちは熊の皮を着て戦ったとも言われています。 そういったいみでは熊は北欧文化において高貴な生き物ともいえるでしょう。 では、なぜ生贄に着せるのでしょうか? それはクリスチャンがホルガに種を提供したからでしょう。 フィンランドでは実際に熊祭が行われていたとされており、 熊祭は「婚姻」と呼ばれていました。 熊祭の内容は、 熊を殺し、頭蓋骨に酒をついで飲み、今後の狩猟が成功するように願うものです。 この祭の舞台では雌熊には花婿が選ばれました。 熊を縫い付けられるのは、ホルガに種を残した外来人。 つまり 種の提供という意味で花婿となる為にやってきたクリスチャンに他ならないのです。 もしかしたら、種を残してくれてありがとうという意味もあるかも…? シャーマニズム的な死者の扱いかた ミッドサマーでは魂や先祖について多くのシーンがあります。 ホルガでは小さな共同体で、ある程度バランスの良い人口を保つために人の生死を調整しています。 崇拝の対象となるのは先祖全体。 子孫はその先祖達の仕事を続け、希望を叶えることに意味があるとされていました。 死者の埋葬に関わる儀式は、死者に対する別離・移行・一族の組織の再編成の儀礼とともに、残された人々の組織を再編成するために行われました。 アッテストゥパンの意味 アッテストゥパンという言葉は 「崖」を意味します。 『ミッドサマー』をご覧になった方なら、儀式にぴったりの名前だと思われるでしょう。 72歳で生涯を閉じ、新しい生命として生まれ変わるとされているホルガ村でアッテストゥパンはどのような意味をもつのでしょうか? ホルガのアッテストゥパンを含めたミッドサマーは、 ホルガの再編成のための儀式です。 死者は新しい命として生き返る。 ホルガの人々にとって儀式で死ねなかったものは「可哀そう」だからハンマーで殴り殺すという過激な思想も、生きているものが先祖の仲間入りを果たすための手助けに過ぎないのです。 アッテストゥパンひとつとっても北欧の死生観が強く反映されていることが分かりますね。 学生同士の仲の悪さ ダニーを含めた一行はいつもつるんでいるものの、仲が良いわけではありません。 今回の旅行もペレが外部の種をホルガにもたらすために「外国で性的な意味でのハメを外したい」と思っていた一行に目をつけました。 ジョシュは博士論文のためにホルガの文化の調査をするという目的がありました。 しかし、それも裏目にでてホルガに興味を持ったクリスチャンが題材の盗用をしようとしたことで仲に亀裂が入ります。 そもそも、研究者として大切な第一歩となる博士論文の題材をパクるという行為は常識的に考えてあり得ないことです。 クリスチャンは先に研究を進めていたジョシュを出し抜こうとまでしているのだから、ジョシュが怒るのも無理はありませんね。 この一行のバラバラ感が、より一層ホルガの共同体としての強い繋がりや共感を強調しているように思えました。 ミッドサマーのディレクターズカット版考察 『ミッドサマー』ディレクターズカット版の考察を追加しました。 DC版ではいくつかのシーンの追加と、モザイク処理の除去がありました。 クリスチャンから余計な助言を受けるより、女友達のほうが素直に自分の気持ちを吐露できているようです。 ディレクターズカット版で追加された車移動中のシーン。 誕生日の一日前にダニーは女友達からメッセージを受け取っています。 「一日早いけど、誕生日おめでとう」 わざわざ一日早く送ってくるのはなぜでしょうか? きっとダニーのことを心配しているからでしょう。 家族を失って、クリスチャンとの仲も上手くいっていないなか異国で迎える誕生日。 普段の誕生日ならきっと楽しいものになるはずです。 しかし、今のダニーはとてもナーバス。 落ち込んでいる時は誕生日が憎く思えるものです。 誕生日の日にダニーが自殺でもしないか心配して、一日前にメッセージを送ってきたのではないでしょうか? こんなに気にかけてくれる女友達がいながら、それでもダニーはクリスチャンへの執着を捨てきれないのです。 クリスチャンの博士論文問題 通常版ではアッテストゥパン後に突然 「俺もホルガについて博士論文書くわ」 とジョシュに宣言したように見えました。 しかし、ディレクターズカット版での追加シーンでその全貌が分かりました。 ジョシュは「The Secret Nazi Language of the Uthark」という本を持っており、 主にルーン文字について、そしてルーン文字にまつわる国や風習について興味を持っていることが分かります。 この本をみてダニーはクリスチャンに 「あなたの論文のテーマと似てるわね」 と話しかけます。 つまり クリスチャンはダニーに北欧文化に関する論文をかくというアバウトなテーマを伝えていたのです。 ただしクリスチャンの博士論文に対するモチベーションは低く、 ジョシュ曰く「博士課程にもなって、大学の電子図書館の使い方も知らない」程度のやる気。 それにも関わらず、八方美人なクリスチャンはホルガの人々に溶け込もうと取材に余念がないのです。 なんならジョシュよりも積極的に動いているのが怖い…。 そしてダニーが言うように、二人の論文のテーマが被ったのは必然です。 なぜなら ペレが皆に北欧文化およびホルガについて興味を持つように仕向けたから。 マヤにあてがうクリスチャンと、メイクイーンになるダニーを連れてくることに成功したペレ。 彼の審美眼と洗脳能力は最強すぎる説ありますね…。 池の儀式の生贄 池の主に生贄をささげる儀式の場面がDC版では追加されました。 この儀式は夏至祭のものではありません。 そのため通常版から削除された可能性もあります。 その後、「生贄が足りない」と言い子供が志願するもののダニーが止めに入り周囲が同調する。 それにより子供は生贄にならずに済む…という流れ。 この儀式は冬至に由来します。 画家カール・ラーションの描いた『』には北欧神話をもとにした内容が描かれています。 この絵の元になったのはウプサラの神殿についての儀式です。 神殿には泉があり、そこでは信仰者たちが生きたままの人間を生贄と捧げ鎮める。 生贄が浮いてこなければ願いが成就される。 というものです。 この絵に描かれている笛を吹く男は『ミッドサマー』にも出てきますね。 ウプサラの神殿もクリスチャンとジョシュが論文で言い合うシーンの背景に壁画が映り込んでいます。 以上のことから 池での儀式は冬至に由来するものと考えられます。 そして、この儀式で犠牲になったのはコニーです。 通常版では最後に水死体のコニーがいきなり出てきて「なぜ?」となりますが、DC版でこのシーンが追加されたことで疑問が解決されました。 犠牲になった人々 『ミッドサマー』で犠牲になったのは、メイクイーンになったダニーを除く5人です。 ホルガのミッドサマーに参加した外部の者はもれなく殺される運命にあると考えられます。 ただし、ホルガには白人しか存在しません。 彼らは外部からの種も選別しているのです。 劇中でホルガの女性と接触した男性はマークとクリスチャンだけです。 一方でジョシュ、サイモンは接触していません。 そして彼らを殺すのもホルガ的には正当な理由があります。 自分の役割を全うすることを求められるホルガで、二人は役割を全うできなかったと言えます。 人数がぴったり9人になるのが都合よすぎる感じもしますが、 ホルガ村なら無理やり数調整をすることもたやすいように感じますね。 ミッドサマー考察・感想 まとめ 映画『ミッドサマー』の考察・感想はいかがでしたか? ディレクターズカット版と通常版で印象が違ったかと思います。 では90年に一度の夏至祭としてダニー達の参加した祭は催されていました。 実際にはそれは呼び込みの文句で 毎年開催されているのではないかと考えられます。 壁に飾られているメイクイーンの写真は40枚程。 そのうち白黒とカラーが半々。 ホルガの儀式を外部に持ち出さないためにフィルムではなくインスタントカメラを利用しているとして、1960年からカラーがインスタントカメラに導入されたこと考えて、すぐにホルガ村に入ってくることは難しいと思うので時差を考えても一年に一回開催の線が妥当と思われます。 ディレクターズカット版ではホルガ村二日目の夜のダニーとクリスチャンの喧嘩の場面が追加されており、より恋愛映画の体を増しています。 ダニーのすることすべてが自分を批判しているように見えているクリスチャンと、心の奥にはそんな気持ちがあるものの実際の行動には出していないので困惑するダニーという関係がよりリアルになりました。 ダニーがメイ・クイーンになったのは偶然かもしれませんが、クリスチャンの浮気を目撃し崩れ落ちた時のホルガの女たちの共感能力は確実にダニーを救うきっかけになりました。 冒頭にはダニーの家族があっけなく亡くなり、後半ではホルガという家族のような共同体がダニーを救います。 この映画では家族、または家族的なものに対する嫌悪が感じられます。 アリ・アスター監督はどうやら家族という共同体が嫌いなようですね。 映画『ヘレディタリー』でも家族の崩壊とカルト宗教を描いています。 ホルガの住人はどこか奇妙で怖いですし、ダニーは一人の人間として生き返ることができましが、それは偽りの家族によってです。 家族は一つの宗教になり得るのです。 親の思想は子供の思想に影響を与える。 一般的にみると異常な思想でもそれが個人にとって救いにもなる。 主観的な救いは必ずしも周囲から祝福されるわけではないけれど、ホルガではみんなが祝福してくれるという共感の構造は女性ならではの感性なのでしょう。 男女で感想が違うのは共感を重視するか否かと関係があるのかもしれませんね。 ついに、ついに『ミッドサマー』の円盤が発売されました!! これで何回でも見返すことができますよー!!!!! 『ミッドサマー』の考察ポイントはまだまだあると思うので、是非映画を見返して映画『ミッドサマー』への理解を深めましょう!!.

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ミッドサマー (映画)

ミッドサマー ペレ 絵

映画ミッドサマーはアリ・アスター監督がで映画で見せるものは「カルトではない」とはっきり言っているため、いったいカルトと宗教の違いとはなんだろう?と思いちょっと考えてみることにした。 ここではあえて監督の答えを尊重してカルトではないという立場で独断で考えていくのと、そもそもホルガはコミューンで宗教団体ではないと思うが、一応分かりやすく区別するために「宗教」とは「カルト」で分けて考える。 まずミッドサマーを見て何をカルトと思われるかというと ・ペレのような勧誘はカルト ・カルトに染まり自分が無くなる ・ホルガの人が死んでいく といった感じだろうか。 ペレのような勧誘はカルト? ミッドサマーを見てカルト団体の洗脳のようだということに僕はとても疑問なのはキリスト教でも他の宗教でも似たようなことはしているはずだからであるだ。 例えばミッドサマーに出てくるペレがホルガ村に優しく誘うのもカルトによくあることと言えるだろうけど、キリスト教も英語を学ぶことをキッカケにキリスト教を広げることはよくあることである。 しかもペレもキリスト教徒も強制したりしつこく勧誘するわけでもないのでカルト団体がなんとか引き込もうとするのとは違う。 ペレがカルトを隠して勧誘したように見えるのはカルトと思われる要素ではある。 しかしこれは想像でしかないが、ダニーの家にはホルガのような花の王冠があったり花の壁紙が張られているので死んだ妹がホルガの宗教を信仰していた可能性がある。 へレディタリーと同じなら最初から「決まっていた」という話なので妹が生きている間にペレがダニーをホルガにダニーの幸せのために誘うような計画をしていたんじゃないかと勝手に思う。 隠しておかないと来ないと思ったかもしれない。 騙すのはいけないけど妹がすべてダニーの心を見抜いてダニーはホルガで幸せになれることを知っていたなら騙してでもホルガに呼ぶ計画をした可能性もある。 嘘だってときには必要というのは分かると思うし、ただ単純な悪意のない勧誘ではなく妹がダニーのことを考えた末の悪意のない騙しだったらカルトだと決め付けるのは難しい。 それとほとんどの人はキリスト教をカルトとは言わないが初期キリスト教はカルトとされていた歴史があるしイスラム教も中世ではカルトと言われた歴史がありカルトと宗教は似ている部分はたくさんあるのである。 宗教どうこうとは違う話だけどペレを誤解している人が多いがペレが悪い人かどうかを決めるのは視聴者でありペレが悪人だとは映画では言っていない。 僕のでも触れたが英語インタビューによると 「ペレは死に誘いこんだ重要人物だけどペレが悪役なのかダニーに心から向き合っていたかは見ている本人次第だ」 ペレはダニーの家族が死ぬことの責任はあります?という話に 「その考えは全く間違いでペレは責任がない」 ということを監督は言っている。 ペレをいい人と思いたいなら思えばいいのである。 僕はペレは悪者だとは考えていない。 ダニーが救われたかどうかで言えば救われるのだから結果的もペレはいいことをするのである。 他の人が殺されるのをは置いといて。 そしてダニーのおとぎ話というファンタジーと考えれば殺されてもダニーが救われればいいのである。 それに宗教は死と救いはいつも密接なので死があったからと言ってカルトにはならない。 カルトに染まり自分が無くなる? ホルガ村は自己がないということで自由なんてないんじゃないかと思うかもしれない。 それでもホルガ村には現代の心の問題になっている様々なことから解放されている世界ではある。 例えば色々できる社会には自分を何かの枠にたくさんはめて考えている。 男だったらこう、女だったらこう、こうなりたい、あーなりたいと妬み、苦しみ心の問題が起こっている。 これが自己でこの自己がないのがホルガなのだ。 何かが欲しい、何かになりたいと自由がなくなる変わりに考えない自由を提供しているのがホルガだ。 これを怖いと言う人もいるのもわかるけどそれを望む人もいるのだ。 その両方にも対応できるのが本当の多様社会なんじゃないかと思うけどバランスを保つのは難しいんだと思う。 カルトと宗教の違いは信者を奴隷のように扱いお金や搾取し奴隷のように働かせ人生を搾取する宗教がカルトだと思う。 信者が嫌がることを強制するのは普通はしないと思うしそんなことをしたら社会からも批判されるだろう。 むしろ現代のブラック企業は奴隷のように働かせ人生を搾取しているのでカルトのような一面はあるといっても間違ってはないんじゃないかと思う。 だから日本の奴隷のように働いている死ぬ過労死という言葉が英語にもなるぐらい驚かれたわけである。 どんな信仰心で働いているのか?奴隷なのか?と思う人はいかもしれない。 人生を搾取されないということで、信仰をしていても別の宗教に変える自由はありそれを拒むことは社会は許さないはずだ。 カルトはなかなか信者をやめさせないだろうから社会的にもおかしいことをしているのである。 でもホルガには宗教を変更する自由はおそらくない。 なぜなら完全にダニは自己をなくしているからである。 完全に自己をなくしている人だけが残っているのがホルガだろうからみんな幸せなんじゃないかと思う。 でももし自己がある人がいるとホルガの人がやめさせるかどうかはわからないので、もしやめさせなければ社会から批判されるけど世界はホルガを知らないから殺されても見つからないだろうけど。 でもホルガは天国のように映画は見せているので、そんな事件が起きるような自己が残る人はいないんだと思ったほうが自然かなと思う。 すべて妹の予定通りならダニーの人生の幸せもコントロールされたもので本当に自己がないということになる。 ホルガの人が死んでいくのはカルト? カルトか宗教かの違いは頭がおかしいと思われたり危険なことかもしれないけど重要なことだと思うので言うが 「極端な話し、誰かのために命をかけることができるのか?」 ということである。 あくまで極端に話しているので実際に信仰していても命までは・・・という人はたくさんいる。 もっと優しく言い換えると、かわいそうな人に優しく接し自分ができる範囲で自分の何かを犠牲にしてでも助けようと行動できる、多少危険があっても人を助けようと動ける、ということだと思う。 例えばお金は少し払って困っている人を助ける、時間を少し犠牲にして人を助ける、プライドを少し犠牲にしても人を助けるといったようなことだ。 命をかけていることをホルガの例で言えば、燃えて死ぬ人や飛び降りて死ぬ人がいる。 狭いホルガでは食べ物も限られているかもしれないし生きるには多くの人がいすぎると困るはずである。 そのためお年寄りは次の世代に命をつないでいくために自ら飛び降りるわけである。 現代では間違っている考えであるけど歴史を見れば人類は存続のために行ってきたわけでカルトだと簡単に切り捨ててしまうことは、本当は誰も言えないのである。 現在では禁止はされているはずだけど1963年6月11日、ベトナムの仏教徒のティック・クアン・ドックは国内で抑圧される仏教徒の現状に不満があり政府の抗議のため焼身自殺をしたのだ。 残った仲間のために命をかけるほど信仰している姿からは悲しくても強くて誰も彼の死を否定できない。 誰でもできることではないのは知っているし、それでも命をかけるほどの信仰心がないのがカルトなのだ。 禁止されているからといって今後同じことが起きないとは誰もいえず現在でもこの死生観は残っていると思う。 この例からもホルガの残った人を考えた前向きの死生観はカルトではないと言えるだろう。 さらにコロナウイルスで世界が萎縮していくなかによるとローマ教皇は信者に 「われわれの司祭らが外へ出て病める者に会いに行き…医療従事者やボランティアらの任務に付き添う勇気を持つよう、主と司祭らのために祈りましょう」 と言っている。 つまり危険があるのは知っている死ぬかもしれないのに感染者と会う勇気と優しさを持ち何かできることをしていこう、と言っているのである。 パニックに陥ったとき信者が世界をどのように助ける行動ができるのかが本当の宗教かどうかを決めるのだ。 これがキリスト教の慈愛の精神なのだ。 なぜカルトと昔に言われてきたキリスト教徒が正式な宗教として認められたか?その理由が信者が命をかけてキリストの慈愛の精神をもってどんな辛さや危険にも立ち向かい死んでいくからである。 そんなに命をかけてまで信仰する人達をカルトと言えなくなるのはわかる話だと思う。 人類の最大の死を生んだ黒死病でも助けようとしたキリスト教徒が多くいたらしく、信仰を強く信じ自分の犠牲をしてでまで人を助けようとする人たちにカルトとは言えない。 それだけではない。 今は聞かなくなった香港の命がかかっていた暴動もキリスト教徒が多く関わっていると言われている。 カルトではそんなことはしないしできないと思えてくる。 あまり詳しくは分からないけどオウム真理教のポアという殺人について言え、まずポアは間違った話でカルトでしかない。 色々記事を見ると「断るとポアされる」らしいのでその強制力は社会的に許される宗教ではない。 また「悪人を殺して成仏させれらるからそれは悪くない」というのも全く愛のない話である。 複数の宗教の愛の視点からしても考えづらい。 キリストではどんなに悪いことをしても許す、弱い者を優しくすることが慈愛だと思うし、仏教でも似たもので慈悲。 他人を幸福を考えないと本当の幸せはないという愛なわけで。 社会的にも信仰心としても人を恐怖に陥れるような自分勝手な攻撃のポアはおかしい。 奴隷と何が違うんだろうと思う。 しかもまともな宗教は美しさがあるのにオウムにはない、なんで信仰していた人がたくさんいたのか僕は不思議だ。 オウムは仏教はベースの考えからは、きちんとベースの愛を知らないと屁理屈、間違った解釈になるんだと思える。 だから宗教に無関心だとカルトに騙されるんだなぁと、ミッドサマーのカルト、カルトじゃない現象からは思えてくる。 そしてホルガの90年に一度は嘘で人を洗脳して殺しているからカルトだというのも一般的な宗教さえ知らない人が多いということだ。 聖書は科学の視点から言えば嘘である。 人が死んで生き返るとか普通に考えればないように宗教でもカルトでも嘘はあるのだ。 しかしそれを嘘とは言わないのがカルトと宗教の違いでありその大きな違いは命をかけてまで守ってきて社会規範と比較しても受け入れられるものだったからは関係しているだろう。 それは神学や宗教学と哲学の視点から見ると簡単に否定できないものだと思う。 それを意味がわからないというのはそれだけ頭の中が見えるもの、数字などしか信じられず現代への弊害と思われるロジカルシンキングだけに偏っているんだと思う。 世界を見渡せば宗教を信仰している人が多いことからも世界は見えることだけ信じれる論理的思考だけではないのはわかると思う。 もちろん現代の倫理ではまずいこともあるけどホルガのほうはとても民主的だと思えるし、むしろホルガは古代であれば他の宗教に攻撃されて消されそうなくらい攻撃性が低いように思う。 伝説のホルガになりそう。 人に優しくできなくなってきているのは今の日本で起こっていることだと思う。 アメリカも出来なくなっているけどまだ信仰心がある人が多くいて助けることなんてたくさんある。 アメリカはひどい競争とお金に追われて人に優しくする余裕が無い人や興味が無い人、お金しか考えていない人がいて、それらを偽者のキリスト教徒というキリスト教徒の人がいるぐらい信仰心が徐々に薄れてきているんだと思う。 僕にはお金信仰している人と宗教の愛を信仰している人を比べてどちらがカルトなんだろうって思ってしまう。 お金は重要だけどそれでたくさんの人が働いても満足のいくお金がなくて貧困になって社会がおかしくなって銃の乱射もある社会はカルトの信者を搾取するのと何が違うんだろうって思う。 そんな世界ならホルガを良く思う人がいても不思議ではない。 ダニーの彼氏のクリスチャンは実は神聖な人? クリスチャンという名前は知っているようにキリスト教徒の意味ではある。 それだけではなく日本には外から来た人を受け入れる信仰があり、異界からやってくる神は人の姿をしているというのがある。 ホルガの人が誠意をもっておもてなしをしたのは異界の人を誠意を持ってお迎えしもてなしすことで人々が幸せで豊かになると思っている可能性は日本の古い言い伝えやら物語りからもわかる。 この点からホルガの未来は日本のおもてなしを作る習慣があるのだ。 さらに神聖な儀式のホルガ式性行為を受け入れるようにお願いされたクリスチャンは神聖なものを受け入れられるぐらい特別な存在として思われているだろう。 そして他のアメリカ人がホルガを否定したから罰を受ける意味で殺されるけど、クリスチャンははっきりとは否定してないのでホルガの罰ではなくおそらく神聖な意味で燃やされているのだと思う。 ここも普通ではありえないのはわかる、だからと言ってホルガを悪くいう理由にはならない。 生贄ではあるけどクリスチャンはど真ん中に置かれ特別扱いされているのがわかる。 ホルガの人も一緒に燃やされるのも彼らが信じる喜ばしい輪廻転生に関わっているだろう。 古代には本当に生贄になることを志願して行く人がいたわけで、それらすべての宗教を殉教するからと言って全部カルトなんだとは言わない。 現代では殉教は禁止されているけど昔はキリスト教でもあったことなのだ。 クリスチャンは神か聖人のような位置づけだったんじゃないかと思う。 クリスチャンには悪いけど 笑 クリスチャンは自分から志願されたわけじゃないけど、映画は監督目線のセラピーと失恋映画のテーマが含まれているので映画から離れたところから見て燃やされても仕方がないと思うしかない 笑 個人的に思うのはカルトはまともなアートがない 反対の意見はいるだろうけど僕には新興宗教はまともなアートがないと思っている。 まともなアートとは美意識が伝わり思想があり信仰しているものがわかるものだと思う。 キリスト教を見ると歴史が長いのもあってたくさんのアートがありキリストの世界を描いたものはスピリチュアルもあればリアルな絵や偶像など様々あり、どれも慈愛の精神の思想が含まれていることが多いと思う。 信仰とアートは密接なのだ。 アートは建築物もそうでそこに思想を反映した美的センスがあるのが世界三大宗教だと思う。 カルトだと建物にセンスを感じなかったりする。 あぶないと言われている新興宗教の建物はネットでも見るとだいたいセンスが無い。 パッと見すごそうでも建物から見える思想がバラバラに見えたりすると何も信じてないんだなぁと思えてくる。 どこかで見たような見た目を真似したものとか、バカにしているのかな?というぐらいである。 突っ込んだらきちんと建物の意味、思想を答えて人を動かせるぐらいのことを言えなくて薄っぺらさが見えてくるだろう。 アートセンスが良いとは現代の社会からも良いと認められるはずなので社会的にセンスがあるものかどうかは判断材料になるんじゃないかと思う。 例を出せば漫画「カルト宗教信じてました」ではエホバが出てくる。 作者がエホバを洗脳カルトというのでエホバの建物をネットで見てみるとやっぱり魅力的でない。 ここでは載せないが見ると分かってくる。 信仰を説明されてもアート、美的センスがないと気づくと怪しいと思うのはあながち間違いではないと思えてくる。 カルトをやる人はカルト内でないと生きられない周りが見えなくなっている人がいるから、そうならないため動じることのない美的センスが必要なのだ。 美的センスは人の人生設計やさまざまなグランドデザインに関わる。 計画を作るとはデザインすることでデザインセンスがないとできないことが多いんじゃないかと思う。 だからこの漫画の中でカルトをやめてこれからどうやっていいかわからなかくなってくるというコマがある。 ホルガを見るとさまざまなアートがあり美意識を感じる。 壁、服、ダンス、礼儀、行動さえも美意識があり強い信仰心を感じる。 美意識がないものに人が惹かれ信仰したいとなかなか思えず信仰しているとしたら何か強制力が働いているのか暴力や脅しで信仰させられているんじゃなかと僕は思えるのだ。 美意識はアートだけでなく姿勢、思考、生き方にも表れるはずだから美意識がない場所って人のことを考えていない椅子の配置だったり色だったりして、そこに優しさ、愛を感じないのである。 何も考えなくていい楽園ホルガはすでに人生設計されているようなもので、運命というデザインに沿って生きているのかもしれない。 しかし宗教は運命論に沿っているところがあるのでホルガをカルトだとは言えないのだ。 例えば最後は神が答えをだしてくれると考える人はたくさんいると思う。 それはカルトではなく信仰としては普通のこと。 頭が固いだけのエリートでは騙される人はいるのかもしれない。 どことは言わないが芸術を武器にカルトに誘い込むとするところもあるが芸術の薄っぺらさにを感じいい加減な信仰心が根元にあると思う。 それとホルガは全く違ってを少し参考にするとホルガは何世紀も昔からあるスウェーデン人による神秘的なグループで、映画でホルガがあるヘルシングランド地方に向かうが、実際にヘルシングランドにはホルガと同じような自然をモチーフにしたアートがあって北欧にで長く行われたきた自然主義に密接する祈りと生活スタイルが映画でもあるわけだ。 ホルガの生き方も自然に溶け込んでいるように見えるし、食べ物には人肉が出たとしても間違っている間違っていないは置いといて、自然崇拝している生き方として一本筋が通るのだ。 ホルガとは違うだろうけどホルガみたいな信仰があった結果、今の北欧社会に自然の中で生きる妖精トロールを信じている人がいるわけだ。 監督はスウェーデンを調べつくしたらしいので、ホルガであった自然主義と人のあり方は現代でも行き続けていると思ってもあながちおかしいものではないと思う。 長い歴史がある洗礼された芸術にははっきり深い信仰、意味があるのでカルトの薄っぺらい芸術と一緒にはできない。 さらに完全公式ホームページにはルーンの聖書ルビ・ラダーを書き続けることができるのは汚れが無い近親相姦で生まれて障害を抱えたルビンのみと固く信じているらしいので、「固く」とまで言われるといい加減なことが多いカルトと同じではないだろうと思えてくる。 信者には頭がいい人もいれば悪い人もいる。 誰でもわかりやすいようにしないと信仰なんてしないわけで、キリスト教でもイスラム教でも仏教でもわかりやすいアートはたくさんあるのだ。 カルトのわかりづらいアートを見せて、それを信仰を表わしている、とかもしいうなら騙しているのかな?と思われてもしょうがない。 なのでカルトか宗教の判断は愛を感じるどうかだ。 それには美的センスはたぶん必要でそのセンスがなければカルトでもないものをカルトと呼んだりするんだと思う。 僕はアメリカでは仏教を信仰しているというけど基本特別に何か一つを信仰しているものがあるわけではない。 勧誘されても断っているし特別一つを信仰したくない。 なぜならどれも愛があって好きで一つだけの信仰が今まで問題を生んでいると思っているからだ。 中途半端かもしれないけど無宗教という人が多い日本なら可能だろう。 中途半端でも複数の愛を理解するからどれも戦わせたくないのだ。 日本人が世界から平和的な立場を求めらることがあるのも、建前上は仏教としても様々な神がいる多神教を認めていて一つの宗教だけに良くしないからだと思う。 それがすごいことだと思うしこれからの世界の多様性の社会には必要な感性なんじゃないかと思う。 たぶん一つだけの信仰をやめるなんて世界の人はなかなかできないだろうけど。 でも結婚相手がキリスト教とかじゃないとダメというならそのときは考えるかもだけど。 ものすごく苦しんで宗教にも精通していたドストエフスキーは「美こそ世界を救う」と信念を持っている。 美は真理であり善であり聖であり美は神の一面なのだと。 だから世界中の宗教アートは美と関わりあるんだと思う。 なぜアニメが世界で愛されるか、それはアニメには世界の薄れている愛の信仰というのがあるからだと思う。 アニメでは人のために自分を犠牲にし愛を持って接することはたくさんある。 そこに世界中の人がロマンを感じるぐらい心に欠けているものをアニメで補強していると言ってもいいかもしれない。 そしてミッドサマーをわざわざおとぎ話として監督が作ったのはおとぎ話のほうがロマンがあって愛を感じるからじゃないかと思う。 現代の倫理では、ねじまがっているホルガでも愛に溢れている映画なのである、そして愛のない宗教はカルトなんじゃないかと思う。 多様社会としてホルガ村は受け入れられるべきか? ホルガは受け入れられるだろう。 仏教が焼身自殺を禁止になるようにホルガ村の人が死ぬ儀式は禁止になるだろう。 変わった性交は神聖儀式として残るだろう。 しかしホルガ村が社会から抹殺されそうと感じたなら、たくさんの人が飛び降り社会に訴え死んでいくかもしれない。 実際に現在もカルトは世界中に日本を含めてあるわけで、そのカルトが社会とともに存続するなら社会が否定することを受け入れなければならない。 そうしないとお互いの信仰を守る戦いが始まり血の海になるのだ。 それがキリストとイスラムの聖戦でありカルトのオウム真理教の持つカルトの信仰と国際社会が持つ愛の戦いのようなものだと思う。 多様社会はできるだけお互いが理解しようと向き合い共感が求められる社会だと思う。 差別し臭いものに蓋では何も解決しないのである。 ホルガ受け入れるには完全にすべてを受け入れるわけではなく社会を乱さないことを受け入れさえ社会も狂ったものに寄り添い狂ったものに共感し狂ったものを受け入れられるようにしてこそ、たぶん現在より成熟した社会なんだと思う。 社会を乱し分断させ混乱させるようなカルトは受け入れられない。 可能性としてはスウェーデンがまず自国の伝統として保護する意味でホルガを受けれようとするだろう。 スウェーデンが受け入れる条件を飲み込めない場合、アメリカが次の候補だろう。 アメリカは様々な信仰心をもつ人を受け入れているし、飛び降りなどを禁止にしても近親相姦まで禁止にするかは難しい。 おそらく禁止だろうがアメリカはによるとカルト宗教ファミリー・インターナショナル(昔の名前は神の子供たち)というのがいて近親相姦も許されているらしい。 世界中からは非難されているもののアメリカに存在しているということはホルガも受け入れられる可能性はある。 しかしホルガをこのカルトのファミリー・インターナショナルと同じだと僕は思わない。 喜びのために軽々しくなんでもかんでも性交をするヒッピーのような自由さは信仰心を薄めると思う。 ホルガは喜びのためというより神聖なものとして扱っており自由にしているというわけでもない。 西洋社会は近親相姦によりレイプされが奴隷にされている!と叫びそうなのはいつものことだが、それは扱い方によるといえ、完全にアウトという判断は難しい。 次に受け入れるのが日本だろう。 日本の古代にはによると近親相姦と神々とのつながりもあったようだし、日本の性コンテンツは近親相姦ものが普通に売られたりしているのでホルガを受け入れやすい環境はあるかもしれない。 もちろん社会ではタブーでしたくもないしするべきではないがホルガが近親相姦は禁止にするぐらいなら飛び降りる、燃えて死ぬというなら、そこまでの意気込みがあるなら受け入れないとはいえないだろう。 ミッドサマーは古代から続いていた人間の営みと神話の連続性を見せ先祖の大切さを教えられた映画だった。 そして悲しみや思いやりに無関心な人が多くなりつつある世界に大きな疑問を突きつけ作品だ。 様々な暴力による世界の社会構造が破壊がたくさん起きていることへのアリ・アスター監督の願いを込めた鎮魂歌のようだ。

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