バグダード 鉄道。 3B政策

バグダード=バスラ高速鉄道路線

バグダード 鉄道

一方ドイツ帝国は1888年のヴィルヘルム2世の即位以来、バルカン半島や中近東への進出を企ててオスマン帝国と接近していた。 オスマン帝国内のアナトリア鉄道やバグダード鉄道はドイツ資本で建設された。 またオスマン領のヨーロッパ側にあってオリエント急行も走行したオリエント鉄道も、筆頭株主はドイツ銀行であった。 しかし「3B政策」は、ロシアのバルカン・中近東への南下政策やイギリスのカルタッタ、カイロ、ケープを結ぶ「3C政策」に脅威となるものであった。 英仏露が激しく反発し、バグダード鉄道の鉄道建設は大幅に遅れ、最終的に第一次世界大戦のドイツの敗戦によって挫折することとなる。 ヒジャーズ鉄道は1900年、オスマン帝国の第34代スルタン、アブデュルハミト2世の命令で建設が開始され、出資はゲオルク・ジーメンスの率いるドイツ銀行が行い、主にトルコ人がドイツ人の指導や支援を受けながら敷設作業を進めていった。 同時期に建設が進められていた鉄道にはベルリンからバグダードまでの鉄道・バグダード鉄道もあり、ドイツ帝国の中東への進出の意思がうかがわれる。 この鉄道は、建設当初に宣言された終着地点であるマッカまでの全路線は結局完成しなかった。 またドイツはオスマン帝国に友好的であり、両国は親密な関係を築いた。 ドイツはオスマン帝国の軍事と財政の制度改革に協力し、そのかわりにバグダード鉄道の敷設権と商業上の特権を認められ、帝国内の重要な経済市場に参入した。 このような傾向は以前のオスマン帝国にとって重要な同盟国であったイギリスとドイツを、オスマン帝国領内のさまざまな利権を巡って対立させることとなった。 エスキシェヒルは現代トルコにおいて主要な産業都市である。 伝統的に製粉や煉瓦製造に頼っていたが、1894年に、バグダード鉄道の為の工場が出来てからは拡張していった。 エスキシェヒルにはトルコ初の航空機産業が設立され、トルコ航空の前身にあたる組織が初めての定期運行を行ったのもアンカラ・エスキシェヒル間であった。 コバニという地名の由来は不明である。 サーリフ・ムスリムは、オスマン帝国時代にバグダード鉄道を建設したドイツ資本の鉄道会社の「会社」という語が崩れてコバニとなったという民間語源説を紹介している。 アラブ語での地名はアイン・アル=アラブとなっている。 鉄道建設と、それに付属する沿線の港湾整備や殖産興業を通じて近東に資本を投下し、自国の経済圏に組み込むことを目的とした政策であったが、イギリスの3C政策と対立することになった。 ドイツは財政的リスクを減らすためイギリスにもバグダード鉄道への出資を求めたが、イギリスはこの政策の延長線上に最重要拠点のインドが入ることや、イギリスが権益を持つスエズ運河の重要性が低下することを懸念して反対し、ドイツとの対立を深めていった。 毎年12月には大きなクリスマスパレードも行われる。 現在はアレッポからカーミシュリーへは、トルコ国境沿いのバグダード鉄道とユーフラテス川沿いの新しい鉄道の二本が走る。 道路沿線開発では自然保護と沿線開発を目的に整備された道路パールロードなどがある。 バグダード鉄道のようにドイツ資本のバグダード鉄道会社に敷設権と沿線開発の権益が供与されたコンヤ・バスラ間の鉄道もある。 鉄道沿線開発で最初例とされている。 既にアナトリア鉄道会社によって開通していたハイダルパシャ〜アンカラ線もしくはエスキシェヒル〜コンヤ線を延長し、小アジアとメソポタミアを横断してペルシア湾の海港を終点とする鉄道計画であった。 最終的にはエスキシェヒル〜コンヤ線を延長し、終点の海港はバスラとする計画線に基づいて建設が進められたが、バグダード鉄道会社による建設は第一次世界大戦のため未完に終わり、ドイツは敗戦によってその利権を失った。 第一次世界大戦後はオスマン帝国から独立した国々で建設が進められ、1940年に全通した。 それはイラクにおいても例外ではなく、シャッタルアラブ川の航行権やバグダード鉄道計画など、西欧諸国への様々な利権の供与が行われた。 また、フランス革命以降の民族独立の機運は、バルカン半島の諸地域だけではなくイラクやシリア地方などのアラブ地域にも、徐々にではあるが着実に波及しつつあった。 ハイダルパシャ駅はイスタンブルのアナトリア側にあるカドゥキョイに近いハイダルパシャにあるトルコ国鉄のターミナル駅である。 オスマン帝国の終末期にバグダード鉄道やヒジャーズ鉄道の始発駅として完成したこの駅から東方あるいは東南方に向け国際列車、国内列車、近郊列車が発着している。 最初の駅はゲブゼへの路線開業と共に1872年に建てられた。 多くの無火機関車の車軸配置は0-4-0か0-6-0であったが、0-8-0や0-10-0の配置のものもわずかに存在した。 ドイツのヘンシェルが製造した600mm軌間の0-10-0軸配置無火機関車は、バグダード鉄道の建設工事で用いられた。 これはおそらくトンネル工事中の一酸化炭素中毒を避けるためであったと思われる。 敗走するオスマン兵に英軍航空機と乗馬兵が追い討ちをかけて、電撃軍集団は壊滅した。 英軍はさらに前進してダマスクスを占領して、10月24日にはアレッポを、10月26日にはバグダード鉄道の分岐点であるムスリーミイェを占領した。 最も狭義の意味の「バグダード鉄道」はドイツ資本のバグダード鉄道会社に敷設権と沿線開発の権益が供与されたコンヤ・バスラ間の鉄道およびその計画線のことだが、広い意味ではイスタンブル〜エスキシェヒル〜コンヤ〜バグダード〜バスラ〜クウェート間の鉄道とその計画を指すことも多い。 既にアナトリア鉄道会社によって開通していたハイダルパシャ〜アンカラ線もしくはエスキシェヒル〜コンヤ線を延長し、小アジアとメソポタミアを横断してペルシア湾の海港を終点とする鉄道計画であった。 またアメリカ合衆国のノーザン・パシフィック鉄道、オスマン帝国のバグダード鉄道などに出資し、鉄鋼・兵器コンツェルンのクルップへの融資や化学大手のバイエルのベルリン株式市場への上場を手がけ多くの企業を傘下に置いた。

次の

バグダード鉄道

バグダード 鉄道

右図のように線で接続させた方が確実です。 線路は最高速度を維持 急カーブや傾斜があると、車両の速度が落ちます。 線路はできるだけ直線にし、カーブもできるだけ緩やかにした方が良いです。 これが基本です。 どうしても急カーブを作らざるを得ない時は、駅の近くが良いです。 駅に到着する時も、駅から出発する時も、どうせ最高速度は出せません。 駅周辺に高低差がある場合は、駅を高い位置に建てた方が良いです。 駅に来る列車は上り坂で減速し、駅を出た列車は下り坂で加速します。 もちろん、土地を平坦にしてから建設するのも良いです。 線路の高さ 線路を敷く前に. キーを押すと、線路の高度を上げます。 ,は下げます。 橋が架かる場合は、橋の種類を選ぶこともできます。 駅を建設する際も、同様の操作で高度を変更できます。 また、MやNを押すと、線路の中央を上げたり下げたりできます。 線路や道路を跨ぐのに便利です。 線路は分割して敷く 目的地まで一気に線路を敷こうとすると、地形や費用を無視して最短距離で繋ごうとします。 特定の土地を迂回したい場合や建設費を考慮して敷きたい場合は、分割して敷いた方が良いです。 それなりに安く線路を敷く 線路を敷く際、nm,. キーで高さを変えて、安い建設方法を確認すると良いです。 ちょっとの手間ですが、それなりに建設費を節約できます。 道路や線路の敷設はマウスの動かし方が影響 道路や線路を敷く際、始点と終点だけでなく、始点から終点までどうマウスを動かしたかも影響します。 この画像は、左上の道路端から道路に沿って右、下へとマウスを動かした場合です。 ほぼ直角三角形になっています。 こちらは、左上の道路端から左下、下、右、上へとマウスを動かした場合です。 緩やかなカーブになっています。 直線の道路や鉄道を敷く方法 道路も鉄道も直線が最も効率が良いですが、道路や線路を敷く時、なぜか微妙にカーブができてしまうことがあります。 カーブができる原因は、既存の道路や線路から延伸した場合です。 直線の道路を敷く方法は簡単です。 何もない2か所を直線で敷き、それから既存の道路に接続するだけです。 旅客列車は2都市間の単線 Transport Fever 2は、2都市間で旅客列車を往復させるのが良いです。 都市が3つあっても、環状線を作るより、3つの路線でそれぞれ旅客列車を往復させるのが良いです。 その理由を具体的に解説します。 ため、正三角形の環状線だった場合、2駅分乗せても1駅分の運賃になります。 正六角形の環状線だった場合、3駅分乗せても2駅分になります。 これでは利益が出ません。 信号機があると、次の信号機までの区間に別の列車がある場合、その区間の手前で止まります。 駅の手前に信号機を作っておけば、駅で列車同士がぶつかるのを防ぐことができます。 この図のように4か所信号機があると、3本の列車を走らせることができます。 信号機を増やせば、さらに列車を増やすこともできます。 人や物資を大量に輸送したい場合は、複線が効果的です。 物資を積むトラック駅も物資を降ろすトラック駅も、できるだけ手前の方に作れば、運搬距離がかなり短くなります。 運搬の効率が悪くなった分、トラックを増やせば、さらに利益が増えます。 ようするに、貨物は近くても遠くてもどちらでも良いということです。 下がその具体的な設定です。 1で穀物を積んで、 2で穀物を降ろし、 3で同じトラック駅にある食料を積んで、 4で食料を降ろします。 この画像の時は 2で降ろして 3で積みましたが、 2の時に積み降ろしを両方行った方が効率的です。 種類の異なる物資なら、降ろす作業と積む作業をその場で連続して行うことができます。 穀物の方が食料よりも輸送量が多いので、農場と食品工場を往復する路線も別に作っておきます。 平地は線路、道路は陸橋 線路と道路が交差すると、踏切ができます。 踏切は渋滞の原因になりますので、できれば陸橋で越えた方が良いです。 車は列車よりも加速が速く、最高速度が低いので、陸橋を作るなら道路の方が良いです。 積み降ろし範囲は道のり 貨物が物資を積み降ろせる範囲は、道のりで決まります。 利用法は色々とあります。 例えば、都市に物資を降ろす場合、道路を追加するだけで、物資が届く範囲が広がることがあります。 都市の道路は自動的に延伸しますが、プレイヤーの手で修正した方が良いこともあります。 都市に旅客駅を建設する場合も同じです。 特定の位置に道路を追加するだけで、駅を利用する市民が増えます。 貨物船の場合はさらに効果的です。 産業が海沿いや川沿いにない場合でも、多少の距離なら貨物港と産業を道路で繋ぐだけで、物資が届くようになります。 具体例は、をご覧ください。

次の

3B政策

バグダード 鉄道

第一次世界大戦とは? (第一次世界大戦 出典:) 第一次世界大戦とは、 1914年 大正 3年 から 1918年 大正 7年 にかけてヨーロッパで起こった戦争です。 ヨーロッパの各国が 連合国と 同盟国に分かれて戦いました。 また、アジアやアフリカには独立国が少なく、ヨーロッパ各国の植民地となっていたので実質世界のほとんどの国が参加した戦争になります。 飛行機や戦車・毒ガスなどこの戦争で初めて使われた武器もあったこと、前線で戦う兵隊だけではなく戦争を遂行するための物資の生産面で女性が活躍したことや、純粋な軍事面のみならず経済力や工業技術力も含めた 総力戦であったことが特徴です。 ドイツ帝国宰相の ビスマルクはフランスの復讐を恐れ、オーストリア、ロシアと 三帝同盟を締結。 のちにオーストリアとロシアがバルカン問題で対立すると、オーストリア、イタリアと 三国同盟を結び、ロシアとは 再保障条約でロシアとの関係を維持します。 イギリスは 栄光ある孤立政策によりどこの国とも同盟を結ばない方針でしたので、これで外交的にフランスを孤立させることができました。 これを ビスマルク外交といいます。 ビスマルクは失脚します。 ヴィルヘルム2世は 帝国主義政策を進め、海外植民地の獲得に動きます。 今後ドイツの人口が増えていくことが見込まれるので余剰人口を海外へ移住させたかったこと、さらに世論を国内問題から対外問題にそらすことで国内世論の統一をはかろうとしたからです。 しかし、ドイツの膨張政策はイギリスやフランスとの対立を意味していました。 またドイツはオーストリアとの関係を深めるためロシアとの再保障条約を延長しませんでした。 一方、ロシアはフランスと接近し、 露仏同盟を結びます。 こうしてドイツはフランスとロシアに挟まれることになってしまいました。 また、ドイツやロシアなど後進国も力をつけてきたこともあり、イギリスは圧倒的な国力によって維持できた栄光ある孤立に陰りが見え始めてきました。 そんな中ドイツはイギリスとは関係を回復しようと努めますが、対ロシア関係で悩んでいたイギリスはロシアとの決定的な対立を避けようとするドイツよりも 義和団事件で活躍した日本を同盟相手として選びます。 このあとイギリスは 1904年に 英仏協商、 1907年に 英露協商を結び、それぞれお互いに現状の勢力圏を認め合いました。 もともと結ばれていた露仏同盟と合わせてイギリス・フランス・ロシアによる 三国協商が成立しました。 しかし、オスマン帝国が衰退すると各民族間で独立運動が起きます。 この地域にはドイツやオーストリアと同じゲルマン系、ロシアと同じスラブ系など様々な民族が暮らしていました。 それぞれ自分たちの影響力を強めようとしたため、オーストリアとロシアの間で対立が深まっていきます。 1908年オーストリアは ボスニア・ヘルツェゴビナを併合します。 この地域には多数のセルビア人が住んでいたためにセルビアはオーストリアに反発。 ロシアはセルビアを支持し、オーストリアと間で戦争の危機 ボスニア危機 が起こりますが、同盟国ドイツがオーストリアを支援したことで戦争は避けられました。 しかし、セルビアの反オーストリア感情は以前残り、対立そのものが無くなったわけではありませんでした。 いつ戦争が起きても不思議ではない状態だったので、バルカン半島は ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになります。 直接対立しているのはオーストリアとセルビアですが、オーストリアのバックにはドイツが、セルビアのバックにはロシアがいますし、ロシアはイギリス・フランスと同盟関係にあるので、オーストリアとセルビアの間で起きた問題が全ヨーロッパを巻き込んだ戦争に発展する可能性があったのです。 これが サラエボ事件です。 事件に対処するため当初は主要国によって外交交渉が持たれ、話し合いでの解決が目指されましたが交渉は決裂。 7月 28日、オーストリアがセルビアに宣戦を布告します。 このあと、協商国側・同盟国側が次々に宣戦を布告し第一次世界大戦が開始されました。 そのために考えられたのが シュリーフェン・プランです。 このプランではまずは全力でフランスを攻撃し、フランスを倒したのちにロシアと戦う、というものでした。 第一次世界大戦でもドイツはこのプランに則してまずは対フランスに戦力を割きます。 ドイツ軍は中立国ベルギーを通ってフランスを攻撃しようとしますが、予想以上のベルギー軍の抵抗に苦戦します。 また、ロシアの動員力が遅いと見越して先にフランスを攻撃しましたが、想定以上にロシアの兵員動員が早かったのも誤算でした。 苦戦をしながらもドイツ軍は前進しますが、ついに戦線が膠着します。 こうしてドイツ軍もフランス軍も塹壕を掘り対峙する、 塹壕戦が始まりました。 この塹壕は北海からスイス国境まで 700キロにも及びました。 当初の予定よりも少ない戦力でセルビアを攻撃したこともあり、セルビアに対して最初の戦いで敗北してしまいます。 これは連合国軍にとっては重要な勝利になり、オーストリアにとっては弱体化する要因になりました。 ドイツのシュリーフェン・プランよりも迅速に兵隊を動員したロシア軍は東プロイセンに侵攻します。 当初はロシアが快進撃を進めますが、ドイツ軍の指揮官が ヒンデンブルクに交代し タンネンベルクの戦いに勝利。 ロシア軍を東プロイセンから撃退することに成功しました。 オスマン帝国政府内でも賛否両論がありましたがドイツ側に立って参戦します。 イタリアはドイツ・オーストリアと 三国同盟を結んでいましたが、オーストリア領内に 未回収のイタリアと呼ばれる領土問題を抱えていました。 そのため 20世紀に入ってから英仏と接近し、第一次世界大戦にはオーストリアに宣戦を布告し連合国側で参戦します。 このため、三国同盟はドイツとオーストリアの二国同盟になりました。 スウェーデンなどの 北欧諸国は中立を宣言します。 日本は日英同盟を理由に連合国側にたって参戦します。 当時、日本は中国の山東省にドイツの利権があり、軍隊が駐留していましたのでここを攻撃し占領しました。 またドイツ領だったサイパンなどの南洋諸島も占領。 日本軍はこのあと輸送船護衛のための艦隊をヨーロッパに派遣します。 この艦隊は小規模でしたが西部戦線に大きく貢献し連合国諸国から高い評価を受けました。 経済面においても日本は大戦でヨーロッパ各国が物資を必要としたこともあり、製造業や海運業が好景気になりました。 成金と呼ばれる成功者が続出したのもこの時期です。 また、ヨーロッパ各国が戦争でアジアに対して干渉する余力がないこともあり、中華民国に対して 21 か条の要求を出しました。 イギリスに向かう輸送船を沈めることで物資や資源を届かないようにしたのです。 そのために活用したのが U ボート 潜水艦。 これは中立国の商船も含めて攻撃をするという 無制限潜水艦作戦でした。 しかしこの決定は中立国の反発を受けます。 特にアメリカの商船が攻撃され、民間人にも被害が生じたためアメリカ世論が憤慨。 これを受けてドイツは作戦を中止しました。 しかし、 1917年アメリカ大統領 ウィルソンが連合国に対して秘密裏に和平を仲介していたことが明るみに出ます。 和平の条件として連合国がアメリカに出した案は、ドイツを始めとする同盟国にとっては受け入れることのできない内容でした。 それでもウィルソンは同盟国に和平案に関する国民投票を提案しますが、同盟国は拒否。 ドイツは無制限潜水艦作戦を再開し、アメリカとドイツの関係は悪化し、 4月にはアメリカがドイツに対して宣戦を布告しました。 ウィルソンは 1916年の大統領選挙でも中立を訴えて当選していましたが、ヨーロッパでの戦争にドイツが勝利した場合、世界観の違いからアメリカとの対立は避けられない状況でした。 それに加えてアメリカが仲介する講和へのドイツの拒否と無制限潜水艦作戦の再開。 さらにはドイツがテキサスなどをメキシコ領とする代わりにメキシコにドイツ側に立って参戦することを要請していたことがわかり、アメリカ国民の間には反ドイツ感情が高まっていきました。 これを受けてアメリカはドイツに宣戦布告します。 アメリカの参戦は連合国、特に西部戦線において優位な状況を生み出しました。 さらなる兵員の増強と物的支援が得られたからです。 当時のロシアは農業中心の国で工業力が求められるこの戦争に国力が疲弊していました。 戦争の重圧、インフレ率の上昇、さらには厳しい食糧不足により労働者や兵士の妻、女性の農民が首都ペトログラードでデモ行進を行い、これが 二月革命に発展します。 これにより皇帝 ニコライ 2 世が退位し、ロマノフ朝が終わります。 その後成立した臨時政府は戦争を継続しますが、国民の間には厭戦気分が広がっていました。 やがて帰国した レーニンが 十月革命を起こし、彼が率いるロシア社会民主労働党の ボリシェビキ 多数派の意味 が権力を奪取します。 権力奪取の翌日ボリシェビキは「 平和に関する布告」を発表。 これを受けて ブレスト=リトフスク条約が結ばれ、ロシアが第一次世界大戦から離脱します。 東部戦線は解消され、ドイツは西部戦線に戦力を投入できることになりました。 連合国軍よりも多くの兵隊を派遣し一時は前線を前進させますが、戦局を好転させるものではありませんでした。 その後ドイツ軍に作戦のミスや物資の不足が起こり兵士の士気が低下していきます。 その結果、次第に連合国軍に押されてくるようになってきました。 ドイツ軍部も自軍の弱体化を悟り、敗戦を覚悟します。 そのような気分は兵士にも知れ渡っていました。 こうした中ドイツ海軍が最後の賭けともいえる攻撃計画を経てますが、キールにある軍港の兵士たちが反乱を起こします。 さらにバルカン半島が連合国軍に奪われたことで、石油や食料などの補給の見込みも立たなくなってきました。 連合国軍は兵士や物資が増えてきたこともあり、ドイツは降伏へと傾きました。 そこで講和条件がイギリスやフランスより緩やかだったことからアメリカに講和を申し入れます。 皇帝ヴィルヘルム 2世は退位しドイツ帝国は滅亡、 ワイマール共和国が成立しました。 そして、 1918年 11月ドイツと連合国との間で休戦協定が結ばれます。 つまり、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国です。 このうち3つは敗れた同盟国側の国です。 4つすべての国が分裂し、9つの新しい国が誕生しました。 ロシアではこのあと、 1922年に ソビエト社会主義連邦共和国が成立します。 主な戦場となったベルギーとフランスが多大な損害を受けましたが、ドイツとロシアもそれに匹敵するぐらいの損害を受けました。 日本からは全権として西園寺公望が参加しました。 この結果、 ドイツには膨大な賠償金とその保障のため ラインラントが非武装地帯になることが決められました。 この後ドイツは賠償金の支払いに苦慮し、国内では未曽有のインフレが発生します。 社会不安やヴェルサイユ体制への不満から、ヒトラー率いるナチスが台頭し、第二次世界大戦へとつながっていくのです。 また、この講和会議では同時にアメリカ大統領ウィルソンが提唱した「 十四か条の平和原則」に基づき、 国際連盟が設立されることが決められました。 しかし、アメリカは議会の承認が得られなかったので、提唱国でありながら連盟には参加しませんでした。 特に毒ガスの被害や、塹壕戦の影響で精神面での被害を受けた兵士も続出し、戦争が終わった後も彼らは悩まされ続けます。 また、男性が兵隊として戦場に出た分、国内で経済を支えたのは女性たちでした。 戦争が契機となり女性の社会進出が始まり、このあと主要国では女性にも参政権が与えられるようになります。 そして、戦後のヨーロッパは戦場になっていたために荒廃状態。 この復興を担ったのはアメリカです。 これまで世界の中心はヨーロッパでしたが、このころからアメリカの存在感が増してきます。 さらに、ドイツのイギリスやフランスに対する賠償金もアメリカがドイツを支援することで支払われます。 しかし、この結果ヨーロッパ経済がアメリカに依存することになり、アメリカ発の 世界恐慌が波及する要因になりました。

次の