鎌倉 幕府 場所。 鎌倉の3つの御所(大倉幕府・宇都宮辻子幕府・若宮大路幕府)めぐり

鎌倉幕府とは?簡単に解説!年号や場所と滅亡の原因と理由についても!

鎌倉 幕府 場所

室町東国の中心。 足利義兼以来、足利氏の邸となった場所 と近い血統を持ち、北条政子の妹を妻とし頼朝とともに鎌倉幕府創成に活躍した源氏の名門、が屋敷を構え、200年以上に渡り子孫が屋敷とした場所です。 室町時代には足利公方(鎌倉公方)の御所となり、この場所から関東以東を治めました。 室町鎌倉の中心はここでした。 現在は特に施設はなく、金沢街道沿いに石碑のみが建っています。 近くの浄明寺バス停近くには足利氏の菩提寺であるもあり浄明寺地域は足利氏ゆかりの地といえます。 小高い山に挟まれたとても静かなこの地域はゆっくり歩いていると心が静かになってきます。 室町幕府をつくった足利尊氏もまたこの邸に住みました。 足利尊氏が室町幕府を開き京都に移った後、京都の幕府は子の義詮(よしあきら)が第2代将軍となり、義詮の弟の基氏が関東管領(後の公方/鎌倉・古河公方)となりこの地において政務を行いました。 以後、鎌倉公方は基氏の家系が世襲し、氏満、満兼、持氏、成氏と続きこの邸に住みました。 当初は関東管領(基氏)と執事(上杉)でしたが、鎌倉公方と管領(上杉家)となり関東十か国を治め、後には陸奥国、出羽国も加わり関東から東をすべて管轄することとなります。 関東管領の反乱ー上杉禅秀(氏憲)の乱 広大な地域を支配する鎌倉公方は徐々に幕府と対立するようになり、室町幕府、鎌倉公方、関東管領という三つ巴はその後幾度も争いを起こします。 京都の幕府が任命する関東管領(上杉家)は幕府方に近い存在でした。 1416年(応永23年)、前関東管領であった上杉氏憲が鎌倉公方(足利持氏)に対して反乱を起こしました。 上杉禅秀(氏憲)の乱です。 山内上杉家と犬懸上杉家の確執も内包していました。 足利持氏が鎌倉公方となり山内上杉家の上杉憲定が関東管領になりますが、1411年(応永18年)に失脚し、犬懸上杉家の上杉氏憲が関東管領に就任します。 しかし今度、氏憲は鎌倉公方足利持氏と対立し更迭され、山内上杉家の上杉憲基が関東管領となります。 氏憲は足利持氏の叔父、満隆を持ち上げて挙兵しますが、幕府の命を受けた今川範政、上杉房方、小笠原政康、佐竹、宇都宮などの満隆・氏憲討伐軍に敗れ、鎌倉の雪ノ下で自害。 犬懸上杉家は滅びます。 ちなみに犬懸上杉家の邸は現在もの近くに残るの奥にあったといわれています。 鎌倉公方が幕府と対立ー永享の乱 1438年(永享10年)、鎌倉公方の足利持氏(1398-1439)と関東管領の上杉憲実(1410? -1466? )の対立に端を発した永享の乱が起こり、室町幕府第6代将軍足利義教は持氏討伐を命じます。 上杉禅秀(氏憲)の乱の後、厳しい粛正、幕府に近い佐竹氏討伐など鎌倉公方足利持氏の幕府に反する行動が目立つようになります。 第6代将軍の義教が就任し元号が正長から永享に変わっても正長の元号を使い続けるなど、完全に幕府に従わないことを態度で示します。 その上、幕府に近い関東管領上杉憲実と対立します。 結局幕府軍に敗れた足利持氏は称名寺にて出家するものの永安寺において自害。 持氏の嫡子義久は鎌倉のにおいて自害します。 戦国時代の遠因となった関東の大乱ー享徳の乱 自害した第4代鎌倉公方、持氏の後を継いだ足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに始まり、幕府・関東管領(山内・扇谷上杉)と鎌倉公方が争いました。 1455年(享徳3年)から1483年(文明14年)まで足掛け28年に及んだこの乱は関東一円に波及し、鎌倉公方、古河公方、堀越公方など関東を治める公方がいくつも誕生しました。 足利成氏は1455年(享徳3年)、父の持氏が自害する原因であった上杉憲実の子、上杉憲忠を殺害します。 殺害された憲忠の子である房顕が関東管領に就き、従弟であった越後守護の上杉房定と合流して上野平井城に入り対立勢力として屹立します。 鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉房顕・幕府勢力の戦いが始まりました。 この乱の結果、利根川の東側を古河公方、西側を関東管領(上杉)が支配し、さらに幕府から鎌倉公方として派遣されたものの関東に入れなかった足利政知による堀越公方が伊豆を治めるという状態になりました。 足利成氏は北関東を転戦している間に幕府の命を受けた今川範忠に鎌倉を奪われたため、下総の古河城に入り御所とします。 これ以後、成氏の系譜は古河公方と呼ばれ以後130年に渡り古河において続いていきます。 結局、幕府は古河公方となった足利成氏を滅ぼすことはできず、以後はこの古河公方が関東の権威を持つこととなりました。 関東の勢力を2分して争った享徳の乱は戦国時代の前章ともいえます。 後に北条氏康、上杉謙信などもその覇権に加わり、時代は戦国へと入っていきます。 後北条氏の時代に自然消滅した古河公方は、豊臣秀吉が喜連川家として復興。 その後江戸時代に入っても大名格として残り、明治を生き抜き家名を足利家に戻して現在まで続いています。 フォトギャラリー.

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鎌倉時代には幕府はどの場所にあったの?

鎌倉 幕府 場所

現在は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の前にその跡地の石碑があります。 この大蔵幕府は次の宇津宮辻子幕府へ遷すか否かの議論の際に少し揉めた場所です。 『吾妻鏡』には金浄法師が「大蔵幕府の土地は四神最上の土地であるため引っ越す必要はない。 西方の土地を広げた方が良い」と記録があります。 つまり、鎌倉幕府を最初に開いたこの地は適当に置かれた地ではなく、京都の平安京のように四神の計算がされて造られています。 東御門旧跡碑 ここは大蔵幕府の東御門があった跡地です。 西御門旧跡碑 こちらは大蔵幕府の西御門跡地です。 政所 これが政所で鶴岡八幡宮と大蔵幕府の間にあります。 場所では若宮大路幕府跡地から200m程です。 現在は石碑もなく目立たないため通りすぎてしまうでしょう。 問注所は源頼家によって正治元年に現在の問注所跡地へ移設される 鎌倉幕府は裁判や訴訟を扱う「問注所」を当初は大蔵幕府の東西の廂 ひさし に設置しました。 しかし、鎌倉幕府2代将軍の源頼家が喧噪を嫌がったため、善信の家を仮の問注所として新たにここに問注所を新設しました。 ここが源頼家が設置したがあった跡地です。 ここへは中世三大日記で知られる『十六夜日記』の作者である阿仏尼も京から訴訟のために訪れています。 1225年に宇津宮辻子幕府へと引越しをしますが、その際には大蔵幕府で説明したように議論が起こりました。 『吾妻鏡』には金浄法師が「四神最上の土地から引っ越す必要はなく、現在の大蔵幕府の西方を広げれば良い」とあり、さらにその後に相談した陰陽師の1人によると「大蔵幕府は先祖 源頼朝 が子孫を見下ろす墓があると子孫は絶えてしまう」「源頼朝の墓はまさにそのようになっている」「頼朝の子孫はみな絶えている」と符合することを言われ、「若宮大路は四神にとっても良い土地」とその陰陽師が言ったことからその意見が採用されました。 この幕府は11年間この地で開かれた後、若宮大路幕府へと遷ります。

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鎌倉幕府の場所はどこですか?その頃の天皇のいた場所はどこですか

鎌倉 幕府 場所

現在は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の前にその跡地の石碑があります。 この大蔵幕府は次の宇津宮辻子幕府へ遷すか否かの議論の際に少し揉めた場所です。 『吾妻鏡』には金浄法師が「大蔵幕府の土地は四神最上の土地であるため引っ越す必要はない。 西方の土地を広げた方が良い」と記録があります。 つまり、鎌倉幕府を最初に開いたこの地は適当に置かれた地ではなく、京都の平安京のように四神の計算がされて造られています。 東御門旧跡碑 ここは大蔵幕府の東御門があった跡地です。 西御門旧跡碑 こちらは大蔵幕府の西御門跡地です。 政所 これが政所で鶴岡八幡宮と大蔵幕府の間にあります。 場所では若宮大路幕府跡地から200m程です。 現在は石碑もなく目立たないため通りすぎてしまうでしょう。 問注所は源頼家によって正治元年に現在の問注所跡地へ移設される 鎌倉幕府は裁判や訴訟を扱う「問注所」を当初は大蔵幕府の東西の廂 ひさし に設置しました。 しかし、鎌倉幕府2代将軍の源頼家が喧噪を嫌がったため、善信の家を仮の問注所として新たにここに問注所を新設しました。 ここが源頼家が設置したがあった跡地です。 ここへは中世三大日記で知られる『十六夜日記』の作者である阿仏尼も京から訴訟のために訪れています。 1225年に宇津宮辻子幕府へと引越しをしますが、その際には大蔵幕府で説明したように議論が起こりました。 『吾妻鏡』には金浄法師が「四神最上の土地から引っ越す必要はなく、現在の大蔵幕府の西方を広げれば良い」とあり、さらにその後に相談した陰陽師の1人によると「大蔵幕府は先祖 源頼朝 が子孫を見下ろす墓があると子孫は絶えてしまう」「源頼朝の墓はまさにそのようになっている」「頼朝の子孫はみな絶えている」と符合することを言われ、「若宮大路は四神にとっても良い土地」とその陰陽師が言ったことからその意見が採用されました。 この幕府は11年間この地で開かれた後、若宮大路幕府へと遷ります。

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