艦 これ 護衛 空母。 ロング・アイランド (護衛空母)

護衛艦いずもの空母化

艦 これ 護衛 空母

USS Gambier Bay CVE-73 基本情報 建造所 運用者 艦種 級名 艦歴 起工 進水 就役 最期 に戦没 除籍 要目 7,800 10,400トン 156. 1 m 512. 3 ft 幅 32. 9 m 108. 1 ft 6. 8 m 22. 4 ft 主機 3段膨張式蒸気機関2基、2軸 出力 9,000馬力 最大速力 19. の19番艦。 艦名はにあるのガンビア湾に因んで命名された。 砲戦で撃沈された唯一のアメリカ空母である。 艦歴 [ ] ガンビア・ベイは当初 AVG-73 (航空機搭載護衛艦)に分類されたが1942年に ACV-73 (補助空母)に艦種変更され、1943年に再び CVE-73 (護衛空母)へと艦種変更された。 1943年にの契約下ので、H・C・ジズウィッツ夫人(現場監督の妻)によって進水する。 1943年にヒュー・H・グッドウィン艦長の指揮下就役する。 ガンビア・ベイは起工から完成まで171日という記録的な日数で建造され、造船所の年間建造目標である18隻を上回る19隻目の艦であったため、カイザー造船所の「ボーナス・ベイビー」と呼ばれた。 からにかけて、ガンビア・ベイはおよび当時のに展開していた空母 USS Enterprise, CV-6 への航空機輸送任務に従事した。 その後、艦載飛行隊のVC-10を搭載し、と真珠湾で訓練を行った後、5月31日、に参加するため真珠湾を出撃した。 、ガンビア・ベイの搭載機は2隻と共同でを撃沈した。 からにかけて搭載機はサイパン島の陣地などを攻撃し、その間にガンビア・ベイは対空砲火によって2機を撃墜した。 続いて7月23日からはに参加した。 にガンビア・ベイはに入港し、ここで艦長がグッドウィン大佐からW・V・R・ヒューグ大佐に交代した。 にエスピリトゥサントを出港したガンビア・ベイは、 USS Kitkun Bay, CVE-71 、 USS White Plains, CVE-66 、駆逐艦4隻とともにへ向かった。 その後、に従事し、からはと続くに参加した。 サマール沖海戦 [ ] 1944年10月25日、第77任務部隊第4群第3集団の一艦として沖に展開していたガンビア・ベイは6時59分、はじめ4隻、6隻、2隻、駆逐艦11隻からなる栗田艦隊と遭遇、艦隊最後尾に位置したガンビア・ベイは敵艦からの砲撃にさらされた。 8時10分、砲弾1発が右舷最後尾に命中、火災が発生した。 この時使用されたは戦艦などの重装甲を貫通することを目的としていたため、ガンビア・ベイの薄い装甲板では爆発する前に貫通してしまい、艦上部にはさしてダメージを与えることはできなかった。 しかし、喫水線下に命中した砲弾は浸水などの多大なダメージを与えた。 その後も砲弾は次々と命中し、浸水のため前部機関室が放棄され、速力は11ノットまで落ちた。 8時40分には艦橋と後部機関室に砲弾が命中、艦は完全に停止した。 8時50分、ガンビア・ベイのヒューグ艦長は総員退艦を命じ、9時11分、ガンビア・ベイは沈没した。 最終的にガンビア・ベイの乗組員・VC-10要員あわせて133名が戦死した。 ガンビア・ベイはの戦功で4つの従軍星章を受章した。 また、サマール沖海戦での英雄的行動で僚艦と共に殊勲部隊章を受章した。 今日、ガンビア・ベイの戦いはアメリカ海軍の士官候補生が必ず学ぶ内容となっている。 アメリカ海軍との協定が成立した1944年前半に、ガンビア・ベイはポーランド海軍の水兵を訓練のため受け入れた一隻であった。 このガンビア・ベイの戦没でポーランド海軍士官35名が戦死している。 なお、ガンビア・ベイの沈没の際に傍を通った栗田艦隊のうちの一隻が、沈みゆくガンビア・ベイを撮影している。 原画はおそらく終戦直後に破棄されたものと思われるが、写真そのものはにを始めとする各新聞に掲載されたようで、それらのでのみ、その写真を今でも見ることができる。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• official website• article by Bill Waldorf• この記事はであるに由来する文章を含んでいます。

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マニラ・ベイ (護衛空母)

艦 これ 護衛 空母

よく「日本は護衛艦しか持ってないから空母は存在しない。 軍艦も日本にはない。 」みたいなことを言う人がいますけど、そもそも軍艦や空母の一般的定義や国際的認識を考えたら、これっておかしい ですよね。 定義では護衛艦と空母は両立可能な概念・区分だから、「護衛艦であり空母である」はあり得るし、「空母じゃない」という主張をしたいのにその理由が「護衛艦だから」だとまったくもって論理的じゃない気がします。 あと「護衛艦と軍艦」ですが、その言葉が指すものが同じなら実質言葉を言い換えただけのダブルスピークに過ぎないので、それを根拠に「軍艦ではない」というのは非常に根源的でない、つまらない議論だと思いました。 (要するに戦闘力を持った、「国家の暴力装置=軍・自衛隊」に属する艦艇を指しているのだから本質は変わらない。 あくまで言い方を選んだだけなのではないかということ。 ) 自分はあまり詳しくないので思ったことを書いてみただけですが、これについて詳しい皆さんはどう思いますか? 「軍艦」て単語も日本のほかには中国台湾くらいしか使わないでしょ? 別にどう言おうがその国その組織の自由なんだよ 日本は大戦後に国家の軍事組織の刷新を行った時に、呼称から整理変更することで新生日本の防衛にふさわしい組織として再スタートするために戦前と名前を変えた おっしゃるとおり、「護衛艦」てのは海自の水上戦闘艦全般を指す単語で、用法的には軍艦に近い。 ただし日本は運用者たる自衛隊を他国の軍隊とは区別されたコンセプトによって設立したと主張しているので、軍隊ではないゆえに「軍」艦以外の用法を使っているに過ぎない ミリタリーかじった輩の中には「護衛艦」を艦種用語である「駆逐艦(DD 」の読み替えとか、「護衛駆逐艦(DE 」と混同した回答を平気で流布するけど、「護衛艦」は艦種を区分する単語じゃない。 仰る通り護衛艦の中に艦種「空母」がいても文脈上齟齬はない。 そもそもその艦艇をどう区分して管理するかなんて現代では国際法なんてないんだから、運用主体が自由に決めていいんだよ まぁそうなんだけど似たようなことは大体の国でやってますからね。 駆逐艦と名乗りつつ、この規模は絶対に巡洋艦だろうってのはほとんど全部の国の軍艦がそういう状態ですし。 フリゲートもかつての軽巡相当にでかくなってるし。 代表はアメリカのズムウォルト。 満載排水量「14,797 t」に155mm砲を二基搭載してて駆逐艦名乗ってる。 他にはロシアに重航空巡洋艦と言う艦種であると名乗っている「アドミラル・クズネツォフ」ってのがあります。 モントルー条約によって空母の通過が規制されている、ボスポラス・ダーダネルス両海峡を通る為にこんな艦種名乗ってる。 どう見ても空母だけど空母じゃないんだぜって名乗ることで問題なくなってる。 日本に限らず世界全体で艦種は主張次第という状態です。 日本のDDHも海外の雑誌見るとCVHって書いてあったりするし、所属とそれ以外の見方が違うからどうこうってのは特に無い。 》あくまで言い方を選んだだけなのではないかということ。 そのものズバリです。 戦後、日本は日本国憲法で「戦力を持たない つまり軍隊を持たない 」という建前上「自衛隊は軍隊ではなく自衛組織」として来ました。 ですが海自の保有している主力艦艇は国際的な分類上「駆逐艦」や「ヘリ空母」であり、諸外国では「軍艦」と呼称される艦種です。 なので質問者さんの仰る通り、「実質言葉を言い換えただけ」であり、「護衛艦」の本質は「軍艦」です。 ただ…公に「護衛艦は軍艦」と認めてしまうと日本国憲法で言うトコロの「戦力を持たず」が根底から覆される事になり、日本国の在り方にまで関わって来ますから、あまりツツカナイデあげて下さい。

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ロング・アイランド (護衛空母)

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艦歴 発注: 起工: 進水: 就役: (AO-33) (CVE-27) 退役: (AO-33) (CVE-27) その後: にスクラップとして売却後、に解体 除籍: 性能諸元 : 満載:22,400 トン 全長: 553 ft 169 m 全幅: 114. 25 ft 34. 8 m 吃水: 32 ft 9. の2番艦。 艦名はからを流れるに因んで命名された。 艦歴 [ ] スワニーはから改装された護衛空母4隻の内の1隻であった。 最初は民間船 マーケイ Markay, MC hull 5 の船名での社で1938年6月3日に起工し、1939年3月4日に ()夫人によって進水、キーストーン・タンクシップ社によって運用された。 1941年6月26日にアメリカ海軍によって取得されスワニーと改名し、艦隊給油艦 AO-33 として1941年7月16日にジョーゼフ・R・ランノム艦長の指揮下就役した。 ()で給油艦として6ヵ月間活動した後、スワニーは1942年2月14日に AVG-27 (航空機搭載護衛艦)に艦種変更される。 2月21日に空母へ転換のためで退役し、作業完了後8月20日に ACV-27 (補助空母)に艦種変更、1942年9月24日に艦長の指揮下再就役した。 1942 [ ] 1ヵ月後、スワニーはを出撃し、に参加するため海域に向かった。 途中で USS Ranger, CV-4 と合流したスワニーは、中央攻撃部隊とともに ()近海を通過して北方から主目標であるを目指した。 11月8日早朝、沖に到着したスワニーは、数日間にわたってを飛ばして空中哨戒と対潜哨戒を行い、はレンジャーの航空機と合同で爆撃任務に就いた。 11月8日から11日にかけて繰り広げられたの間、スワニーの航空機は255回出動し、戦闘行為で3機、運用上の事故で2機を喪失した。 11月11日、スワニーの哨戒機は ()でを発見して攻撃し、撃沈したと報告した。 しかし、実際にはその潜水艦は、カサブランカから出撃してきた3隻の側の潜水艦のうちの1隻だった。 いずれにせよ、スワニーは対潜攻撃で初めて戦果を挙げた護衛空母となり、護衛空母による対潜任務が十分に通用する事を立証した。 スワニーは11月中旬まで北アフリカ海域で行動した後、経由でに向かい、11月24日にハンプトン・ローズに帰投した。 その後、12月5日に出港して南太平洋に向かった。 スワニーは12月11日から12日にかけてを通過し、1943年1月4日にに到着した。 1943 [ ] 南太平洋に到着してからのスワニーは、約7ヵ月間にわたってのに対する補給船団の護衛に従事し、をに北上していく味方の間接援護を行った。 スワニーはニューカレドニアやガダルカナル島の他、やにも立ち寄った。 スワニーは10月にに帰投し、11月5日までにはエスピリトゥサント島に進出した。 11月13日、スワニーはに参加するため出撃。 11月19日から23日にかけて、スワニーは南部攻撃部隊の空中援護を担当しながら攻撃を行った。 この時、を担当する北部攻撃部隊は、依然を攻撃中だった。 作戦終了後、護衛空母群は経由でアメリカ本国に向かい、スワニーは12月21日にサンディエゴに帰投した。 1944 [ ] 新年を挟んで、に二週間停泊した後、スワニーはの ()に移動。 1944年1月22日に方面へ向けて真珠湾を出撃した。 スワニーは北部攻撃部隊に属し、対潜哨戒に従事する一方で、の北端に位置するへの機銃掃射を含んだ航空攻撃を行った。 2月に入ってからも、前半15日間はクェゼリン方面での対潜哨戒を継続し、次の9日間は近海に進んでの支援を行った。 2月24日、スワニーは戦場から下がって真珠湾に向かい、3月2日に帰投。 二週間にわたって待機した。 スワニーは引き続き()とともにあり、3月30日と31日に行われたへのに参加した後エスピリトゥサント島に向かい、同地に4日間停泊。 その後、 ()、と北上し、に参加した。 スワニーは二週間にわたって()のへ補充の航空機を送り込み、を間接的に支援した。 5月5日、スワニーはマヌス島に帰投し、さらにエスピリトゥサント島へ下がった。 スワニーはエスピリトゥサント島からおよびクェゼリン環礁への航海を行った後、6月中旬には東方の海域に到着し、以後約1ヵ月半にわたってとを支援した。 が起こった6月19日の午後、対潜哨戒中のスワニーのは浮上中の潜水艦を発見。 爆弾4発を投下して監視していると、海面にはが広がってきた。 この潜水艦は (伊184)だった。 8月4日にマリアナ方面での作戦を終えたスワニーは、エニウェトク環礁を経て8月13日にゼーアドラー湾に帰投した。 1ヵ月後の9月10日、スワニーはに参加するためゼーアドラー湾を出撃。 9月15日に行われたへの上陸作戦は何事も無く終わり、スワニーはゼーアドラー湾に帰投。 次のへの準備に入った。 10月12日、スワニーは攻略部隊とともにゼーアドラー湾を出撃した。 この作戦にはスワニーを含めて18隻の護衛空母が参加して第77. 4任務群を構成しており、司令官は USS Sangamon, CVE-26 を任務群総旗艦にしていた。 任務群はさらに3つの部隊、第77. 1任務群(通称「タフィ1」。 トーマス・スプレイグ少将直卒)、第77. 2任務群(「タフィ2」。 少将)、第77. 3任務群(「タフィ3」。 少将)に分けられていた。 スワニーのいる第77. 1任務群は南方海域、第77. 2任務群は口、第77. 3任務群はサマール島東方海上で、それぞれ哨戒と上陸部隊支援の任務を遂行していった。 スワニーの航空機は、10月25日まで各地に点在する日本軍拠点を片っ端から攻撃していき、またの支援と、これまでと同様に空中警戒と対潜哨戒任務も行った。 10月24日、第77. 1任務群の護衛空母のうち USS Saginaw Bay, CVE-82 と USS Chenango, CVE-28 は航空機の交換を行うためモロタイ島に向かい、残るはスワニーと USS Petrof Bay, CVE-80 、サンガモン、 USS Santee, CVE-29 の4隻となった。 10月24日から25日にかけて、は戦略的に重要なフィリピン防衛のため、三方面から反撃を試みた。 囮部隊は中将の指揮下、のと大型空母を引きつけるべく南方へと向かっていた。 中将率いる艦隊、および中将率いる艦隊はを突破することを試みた。 そして、中央の中将の艦隊は無防備のに突入しようとした。 栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を通過していたころ、西村艦隊および志摩艦隊には中将の第77部隊が立ちふさがって撃退し、第3艦隊は全力を挙げて小沢艦隊撃滅のため北上中だった。 この事により、第77. 4任務群は方面における、この時点で唯一の海上戦力となっていた。 10月25日7時の少し前、第77. 2任務群の USS Kadashan Bay, CVE-76 から発進した航空機が、4隻の、8隻のおよび11隻の、すなわち栗田艦隊を発見した。 この時、栗田艦隊に近かったのは第77. 3任務群で、第77. 1任務群はそれよりもはるか南にいた。 このため、スワニーはサマール島沖での栗田艦隊の砲撃には遭わなかった。 間もなく、第77. 3任務群を救うための攻撃隊を急遽編成して出動させる事となり、兵装を整えた上で暫時発進しつつあった。 神風 [ ] スワニーに命中して転がった特攻機のエンジン(1944年10月25日) ところが、攻撃隊発進の真っ最中であった7時40分、1時間前の6時30分にを発進して北上していた 、最初のである菊水隊、朝日隊および山桜隊が第77. 1任務群に襲い掛かった。 6機の零戦はただちに急降下で突入してきたため、対空砲火を打ち上げる暇も無かった。 1機は攻撃隊を発進させたばかりのサンティーに命中。 別の1機はスワニーの上空で旋回を始めた。 スワニーの対空砲火はただちに応戦し、被弾したこの日本機は、スワニーの方向に45度の角度で突っ込んでいったものの、これは命中しなかった。 このスワニーの対空砲火は、一時は他の護衛空母も救った。 サンガモン上空で攻撃の機会を待っていた神風には、ただ1基の5インチ砲の射撃が当たってこれを撃墜し 、ペトロフ・ベイへの突入を試みた神風に対しても砲火を浴びせて、ペトロフ・ベイは間一髪で命中から免れた。 神風2機を撃墜したスワニーは8時4分頃、後方約2,500メートル上空で旋回中の新たな神風を発見した。 やがて、急降下で突進してきたのでスワニーは対空砲火を浴びせかけた。 神風は被弾して火を噴き、これを見たスワニーの乗員は落ちてゆく3機目の獲物に喝采を浴びせた。 しかし、喝采を浴びせかけられたこの神風は次の瞬間、スワニーの後部エレベーター前方のに命中して直径3メートルほどの穴を空け。 格納庫で爆発しておよそ7. 6メートル四方の大きな穴を空けた。 スワニーは火災こそすぐ消し止めたものの後部エレベーターが使用不能となり、71名の戦死者と82名の負傷者を出した。 衛生班の将校であったウォルター・B・バーウェル中尉は、死傷者の状況について、次のように報告した。 「衛生兵の一人は、操舵室で負傷しながらも『火災で隔離されている前部にこそ、医療チームが必要だ』と報告してきた。 私は彼とともに、救急バッグに、、、およびを入れ、消火器を抱えて火災をかわしつつ前方に進んでいった。 やがて、火災は海水を汲み上げて消火ホースで消し止められつつあった。 私たちは、いまだくすぶる士官用区画と戦闘情報センターおよび暗号解読室を通過して、前部の舷外通路にたどり着いた。 前部にいた乗員のうち、外に出ていた者は爆発で海中に吹き飛ばされていた。 しかし、その他の艦内にいた乗員は、その下の格納庫で航空機から流出したによる火災に半ば晒されていた。 彼らの助かる唯一の方法は海中に飛び込む事であったが、脱出する前に脱出経路にも火の手が回っていた。 流出したガソリンは、我々が到着する時までには燃え尽きており、火は小さなものになっていた。 しかし、デッキと隔壁は火災によってひどく焼けただれ、下部にあった小火器用の弾薬庫からは、弾薬があちこちに散らばっていた。 2,3名の乗員はパニック状態に陥っており、艦から飛び出しかねない状態だった。 我々は、彼らを直ちに拘束して沈静させた。 やがて火は消し止められ、これ以上の犠牲者は出ないとの保証の見通しが立った。 前部での負傷者の多くはひどい火傷を負っており、迅速な治療が望まれる」 スワニーは2時間以内に応急修理を終え、航空活動を再開させることができた。 第77. 1任務群は、13時までにもう2回の航空攻撃を受けたが、いずれも撃退した。 この時までに、栗田艦隊は謎の退却で北西に向かっていた。 第77. 1任務群は第77. 3任務群との会合のため、北東に進んだ。 翌10月26日午後、第77. 1任務群は神風特攻大和隊の波状攻撃を受けた。 このうち、第三波が空中警戒網を突破して第77. 1任務群上空に到達した。 この時、スワニーには対潜哨戒を終えて着艦し、格納庫に収容されつつあったアヴェンジャーがエレベーター上にいた。 12時40分ごろ、1機の神風はこのアヴェンジャーに体当たりして大爆発を起こした。 スワニーは操舵装置の大部分が破壊され、艦内には再び火災が発生。 格納庫内にあった9機の航空機も破壊された。 直後、ペトロフ・ベイに向かっていた別の神風は対空砲火に被弾しつつ針路をスワニーの方に変え、間もなく飛行甲板に命中した。 火災はしばらく続いたが、最終的には鎮火した。 2日間でのスワニーの戦死者は107名を数え、160名が負傷した。 なお、この大和隊の攻撃に使われたの一部は、10月25日に第77. 3任務群に突入した神風特攻敷島隊(大尉)の直掩機(飛曹長ほか2名)が転用されたものだった。 スワニーは10月28日にに立ち寄った後、11月1日にマヌス島に帰投した。 その後、本格的修理を受けるために11月6日にぜーアドラー湾を出港し、西海岸に向かった。 11月19日から20日にかけて真珠湾で停泊し、11月26日にに到着。 スワニーの修理は1945年1月31日まで行われた。 1945 [ ] 修理を終えたスワニーは、とを経由し、太平洋方面に向かった。 2月16日に真珠湾に到着し、23日に出港。 3月4日から14日までツラギ島に寄港した後、3月21日にに到着。 3月27日、スワニーはの戦場に向かい、上陸作戦当日の4月1日に沖縄沖に到着した。 沖縄戦でのスワニーの最初の任務は、上陸部隊への近接支援であった。 数日間のうちに、内にある神風の基地を空襲で封じ込めた後、次の77日間にわたってそれらの基地の再利用を防ぐため、定期的に圧力を掛け続けた。 スワニーは前進根拠地のを根拠地として行動し、大半は洋上での航空任務に費やされた。 6月16日、スワニーは沖縄海域を離れてレイテ島に向かった。 一週間の停泊の後、スワニーはに加わるために向かった。 近海での支援を終えたスワニーは、7月6日にサンペドロ湾に帰投。 8月3日に出港して、8月6日にに到着した。 1945年8月15日に戦争は終わり、スワニーは9月2日まで沖縄に留まる。 その後本国に帰還し、同月末に大西洋予備役艦隊入りした。 1946年2月6日にの泊地に停泊を指定され、1946年10月28日にの第16艦隊に状態で配属される。 およそ二ヶ月後の1947年1月8日にスワニーは退役した。 その後12年間、スワニーはボストンで保管される。 1955年6月12日に CVHE-27 (護衛ヘリ空母)へ艦種変更され、1959年3月1日に除籍された。 船体は1959年11月30日にのイスブラントセン・スティームシップ社に商船へ転換する目的で売却されたが、商船への転換は取り消され、1961年5月に同じニューヨークのJ・C・バークウィット社に転売された。 スワニーは最終的に1962年6月、ので廃棄された。 スワニーは中の戦功で13個の従軍星章を受章した。 脚注 [ ]• NavSource Naval History. 2011年1月27日閲覧。 金子, 98、99ページ• 金子, 98ページ• 金子, 108ページ• 金子, 109ページ• 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、• 金子敏夫『神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実』光人社NF文庫、2005年、 外部リンク [ ]• この記事はであるに由来する文章を含んでいます。

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